神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
1.はじめに
イエス・キリストを信じてから弁護士としていろいろな法律問題に取り組んでいくうえで、私には2つの大きなテーマが与えられています。第一のテーマは「あらゆる問題は『解決』できる」ということであり、第二のテーマは「あらゆる問題は『益』となる」ということです。
第一のテーマは、私のスピーチや書き物の定番になってしまいまして、キリスト教雑誌の「恵みの雨」でも毎月連載されています。これは「神の英知と力」という視点から問題に取り組んでいくときに体験する真理です。
第二のテーマは、本質的には第一のテーマと同じですが、これは「神の愛と恵み」という視点から問題に取り組んでいくときに体験する真理です。
今日は、第二のテーマである「あらゆる問題は『益』となる」という真理について、私の体験からお話させていただきます。
2.こんな大きな御利益はない
「こんな大きな御利益はどこにもない」(プレイズ出版)という本を滝元明氏が出版されましたが、私もこれに同感です。私は、「キリスト教は世界最大の御利益宗教である」と思っています。キリスト教においては、来世(天国)における御利益(恵み)を含めた霊的・精神的な御利益(恵み)が与えられるばかりでなく、この世の現実の生活における衣・食・住等にかかわる肉的・物的な御利益(恵み)も与えられるということです。
子どものように聖書を素直に読んでいくと、また法律家として聖書を論理的に厳密に解釈していくと、そうとしか考えられないのです。私の個人的な体験からも、また多くの方々のあかしによる体験談からも、そうとしか考えられません。
ただし、私は「宗教」という言葉があまり好きではありませんので、「キリストを信じる者は、現世および来世における神の無限の恵みを受けることができる」と言い換えたいと思います。まさに私たちは、神のアメイジング・グレイス(驚くべき恵み)の中に生かされているのです。
3.永遠の命
まず、聖書は「来世」についてなんと言っているでしょうか。
神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
聖書には、神の御子イエス・キリストを信じる者は、「永遠の命」を得ると書かれています。こんなものすごい御利益があるでしょうか。「永遠の命」です。私たちは皆、この世における百年足らずの命のために、アクセク勉強したり、働いたりしています。百年と永遠とはケタ違いです。いや、比較になりません。秦の始皇帝は、「不老長寿」を念願して、「不老長寿の薬」を探した者にはなんでも望むものを与えると約束して、世界中を探させました。しかし、その願いはかなえられませんでした。
最近、私の教会の日曜学校で一緒に聖書を学んでいた韓国大使館員が韓国に帰国しました。この方は呉(オー)さんという空軍武官です。皆で呉さんの送別会をしました。そのとき呉さんはニコニコして大変うれしそうでした。
私は呉さんに「日本から韓国に帰れるのがそんなにうれしいのですか?」と聞きました。「いや3年もいた日本を離れるのは大変悲しいです。でも、私の息子が大学に入ったのがうれしいのです」との返事です。
呉さんの息子さんは、韓国が国を挙げて科学技術の発展のために特別に創設した「科学技術大学」に入学したというのです。この大学は全学生学資免除で生活費まで支給し、一学年50人しかとりません。日本の東大に匹敵するソウル大学(一学年2000人)を上回る超エリート大学なのです。
「呉さんは、息子さんのためによほど熱心に教育されたのですねえ」と私が言うと、「いや私は仕事が忙しかったからなにもしませんでした。息子が受かったのは私の祖母さんのおかげです」と言うのです。そこで呉さんの祖母さんの話を聞きました。
呉さんの祖母さんは韓国の貧しい家に生まれ育ちました。ある時イエス・キリストを信じてから熱心にキリストに仕えました。毎朝4時に起きると教会行って、家族のため、社会のため、国のために祈ります。祈り終わってから家に戻って朝食の支度をします。たくさんの貧しい人たちを助け、少しでもお金の余裕ができると、みな教会に献金しました。そのおかげで、家族4代にわたって全員がクリスチャンになったのです。
祖母さんが90歳を過ぎて病気になり、長らく寝たきりになりましたが、ある日亡くなりました。家族の者たちが悲しみのうちにお葬式を準備しました。ところが、死んだ祖母さんが生き返ったのです。驚いている家族に祖母さんはこう言ったそうです。
「私は死んで天国に行きました。それはそれは美しいすばらしい所です。言葉では到底表現できません。もう2度と地上に戻りたいなどとは思いませんでした。そこでイエスさまと会いました。イエスさまは優しく私を迎えて、ある場所に連れて言ってくれました。私たちはとても大きな邸宅に入りました。見ると、なんとその家はすべてダイヤモンドでできていて燦然と輝いているではありませんか。あまりの美しさに我を忘れてぼう然としていると、イエスさまがおっしゃいました、『これはあなたの家ですよ』。私はびっくりしてとっさに、『とんでもございません、イエスさま、私はこんなすばらしい家にはとてももったいなくて住めません』と申し上げましたら、イエスさまは『あなたは地上にいたときに本当に良く私に仕えてくれた。私はそれを非常に喜んでいる。これはあなたのために私が建てた家だ』とおっしゃたのです。その時私は家族のことを想い出して、言いました。『天国がこんなにすばらしい所とは知りませんでした。ぜひこれを私の愛する家族に伝えたいと思います。ですから私をもう一度家族のもとに戻して下さい』イエスさまは私の願いを聞いて下さって、私はこの世に戻ってきたのです」。
呉さんは、死んで生き返った祖母さんから直接この話を聞いたのです。祖母さんは元気になってたくさんの人々に天国の話をした後、再び天に召されました。呉さんは、「亡くなったあの祖母さんのおかげで、子孫が1人残らず神さまの特別の祝福を受けているのです」と涙を流して語っていました。
私はこの話は100%事実であると信じました。そして「イエスさまは私のためにどんな家を用意して下さるだろうか」と大変楽しくなったのです。その時は心底から、「一刻も早くこの地上を去って天国に行きたい。早くイエスさまと顔と顔を合わせてお会いしたい」と思いました。
家に帰ってこの話をして、「僕はダイヤモンドのマンションはとても無理だけど、ルビーかサファイアの家がいいなあ」と言うと、妻は「私はダイヤモンドよりは、純金の家がいいわ」と2人で勝手なことを言って、大笑いしました。
聖書には、神の都は純金と諸々の宝石でできている(黙示録21:18〜21)と書かれています。
また、神を愛し、神の命令を守る者には、恵みを千代にまで施す(出エジプト20:6)と書かれています。
イエス様は言われました。
わたしの父の家にはすまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意して行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。(ヨハネ4:2〜3)
4.万物を賜る神
次に、聖書は「現世」についてなんと言っているのでしょうか。
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物を賜らないことがあろうか。(ローマ8:32)
要するに、「キリストを信じる者には、神の永遠の命が与えられるばかりでなく、神の創られた天地万物をも与えられる」と書かれています。これは論理的にも当然のことです。なぜなら、聖書によると、天地万物はキリストによって、キリストのために創られたものですから(ヨハネ1:3、ヘブル1:2、コロサイ1:16)。
私たちにキリストを与えて下さった神は、キリストによって創られた被造物にすぎない万物を、私たちに与えて下さらないはずがないのです。私たちはキリストを信じてキリストと一体となることによって、キリストの共同相続人(すなわち共有者)とされているのです。
私は高校生の頃地学(天文地球物理学)を学んだことから、宇宙に興味を持つようになりました。あの無限と思われる広大な宇宙を考えると心が広くなります。そして日常のささいな物事を気にするのが馬鹿らしく思えます。しかし同時に、宇宙の大きさに比べて地球はなんと小さいことか、その小さな地球に住んでいる1人の人間にすぎない私はなんと小さく無価値な存在にすぎないことか、とむなしさを覚えてきました。
ところが聖書を学んで、天地は、神がキリストによってキリストのために創られたことを知りました。私たち人間は、神の愛の対象として神のイメージに創られた唯一・最高の被造物であることを知りました。すなわち、私たち人間は、天と地にあって、神と共に喜んで楽しんで生きるように創られたことを知りました。
私たちは、天と地を神の恵みの賜物として、享受することができるのです。太陽や月は私たちの生活になくてはならないものです。数え切れない星をちりばめた雄大な天体は、私たちがその美しさに感動し、神の偉大なすばらしさを誉め讃えるためのものです。
このように、「神は私たちを愛しているがゆえに、私たちに無限の恵みを与えて下さっている」という大前提に立ちますと、「神は万物を益として下さる」すなわち「あらゆる問題は『益』となる」ということが、よくわかってくるようになります。そして、神は、私たちを愛しているがゆえに、「あらゆる問題は『益』となる」ようにして下さらないはずがない、という確信になってきます。
5.あらゆる仕事・職業を生み出す
そもそも、あらゆる仕事や職業は、「問題」を解決するためにあります。弁護士は人々の「法律問題」を解決するためにあります。医師は「病気という問題」を解決するためにあります。牧師は主として人々の「霊魂にかかわる問題」を解決するためにあります。政治家は「政治問題」を解決するためにあります。「金融の問題」を解決するために銀行があり、「物資の流通の問題」を解決するために各種の商事会社があるのです。「教育問題」を解決するために学校があり、「老人問題」等を解決するために福祉施設が存在しています。
あらゆる問題を解決するために、いろいろな仕事や職業が生み出されているわけです。このように「問題」は「仕事・職業の存在価値」という「益」をもたらしています。要するに、「問題」を解決するために、「人々がお互いに助け合い、協力し合って生きていく」という「益」が生み出されているのです。
6.神に出会うチャンスを生み出す―最大の益
問題を持っている人を助けるために他の人々に仕事・職業という益(生き甲斐)がもたらされているわけですが、それではその人自身にとって問題は益となるのでしょうか。問題を持っている人は、そのために他の人の助けを借りたり、お金を使ったりしなければなりません。それが果たしてその人にとって益となると言うことができるでしょうか。
私たちが生きていく過程において問題は次から次へと生じてきます。やがては、人の助けやお金の力ではどうにもならないような問題に押し潰されそうになります。そしてついに、「神がおられるなら、神さまどうか助けて下さい!」と心で叫ぶようになるのです。多くの人々がこのようにして、神に出会ってきました。私もその1人です。神に出会うことによって、私たちの人生の根本の問題は本質的な意味において解決されてしまうのです。神に出会い、神を信じることによって、私たちのために神は「あらゆる問題を『益』として下さる」ことを体験できるようになるからです。
ですから、問題のもたらす最大の益は、「天地万物の創造者なる神に出会うチャンスを生み出す」ということであると思います。実に、私たちがこの世に生きる最大の目的は「神と出会う」ことなのです。
7.私の三大苦―英語・法律・スピーチ
私にとって最も苦手で嫌いなことが三つあります。それは英語と法律とスピーチです。しかしそれらが神と出会うチャンスを生み出し、今や私の日常生活において最も活用されているから不思議です。
まず、英語が大嫌いでした。英語を学び始めた中学生の頃から、なぜ日本人がこんなに苦労して英語などを学ぶ必要があるのかと反発していました。ですから、高校に入っても英語はいつも最低の点でした。でも大学の入試科目にあるのでどうしても勉強せざるを得ません。そのために英語の学習に最も時間を使い、最も努力しました。その結果、英語の成績が一番良くなってしまったのです。大学ではあまり英語を使うことはありませんでした。しかし、あれだけ苦労して勉強した英語を使わないで忘れてしまうのはもったいないと思って、弁護士になった時に国際的な法律事務所で働く道を選んだのです。
次に、法律が大嫌いでした。それではなぜ法学部に入ったかと言うと、父の家業の米屋を継ぐのが嫌だったためです。法学部に入れば父があきらめてくれるだろうと思ったのです。ところが、法律の勉強はまさに砂をかむようで全く面白くありません。でも勉強しなければ卒業することができません。司法試験でも受ければ少しは勉強する気になるだろうと思って、ある法律のサークルに入りました。そこで、皆でワーワーと議論しているうちに試験に合格してしまったのです。以後、弁護士になって毎日法律にかかわる仕事をしています。
第三に、人前で話すスピーチが死ぬほど嫌いでした。私はもともと寡黙で、黙って何も考えないでボーッとしているのが好きです。本を読むのは好きですが、人の話を聞いたり、自分で話すのは嫌いなのです。ところが、弁護士になったらいろいろな人たちと話さなければなりません。クリスチャンになったら、あちらこちらで大勢の前であかしをしなければなりません。話すのが苦手ですから、話す前に、内容を一字一句文書にして準備しなければならなくなりました。しかし、この文書がコピーされて配布されたり、本になったり、雑誌やインターネットのホームページに掲載されたりして、多くの方々のお役に立っているのです。
神は私の「三大苦」をこのように「三大益」にして下さっています。まことに神は「世界最高のコメディアン」であると思います。
それではなぜ神は私の苦手を益にして用いさせているのでしょうか。それは私が高慢にならないためではないかと思います。私にとっては、未だに英語と法律とスピーチは苦手です。ですから、まともにできるようにと、いつも祈らなければなりません。そうするとなんとかまともにできるのです。私は自分の苦手なことをまともにできたとして人からほめられても全然ピンときません。まともにできたとすれば、それは自分の能力によるものでなく、神の恵みによるものですから。
私は、人生の道に迷って「三大苦」を背負い込んでしまいましたが、そこから生じる諸々の問題の重圧に耐えかねて、神に助けを求め救われた者です。神と出会ってから日々の難しい問題に取り組むことによって、神との関係を深めさせていただいている者です。
8.神を愛する人々のために
「あらゆる問題は『益』となる」と言っても、世の中を見ると必ずしもそうとは思えません。短期的に見れば、はじめは小さな問題がどんどん大きな問題となって、家出、離婚、重病、倒産、自殺、殺人といった事態にまで発展しいくことが多くあります。これらの問題を通して、その人が神に出会うならば、問題は益となりますが、もし神に出会わないならば、必ずしも益とはなりません。
ここで、聖書はなんと言ってるかと申しますと、「あらゆる問題は『益』となる」のは、「神を愛する人々」のためになのです(ローマ8:28)。「神を愛する人々」とは、「キリストを信じる人々」のことです。
それではなぜ、「神を愛する人々」すなわち「キリストを信じる人々」にとって「あらゆる問題は『益』となる」のでしょうか。
「信」という言葉は、「人」と「言」が合体してできています。しかも「人」が従で「言」が主となっています。聖書には、「イエス・キリストは神のことば」(ヨハネ1:1〜18)であると書かれています。ですから、神のことばと人が主従の関係で結ばれて一体となっていることが、「イエス・キリストを信じる」ということです。
すなわち、聖書に書かれていることを素直に受け入れていくならば、神のことばでありかつ神であるイエス・キリストを心の中にお迎えすることができます。要するに、イエス・キリストの誕生、生い立ち、教え、奇跡の業、十字架の死、復活、昇天、再臨等とその奥義について聖書に書かれていることを、素直に受け入れていくことです。
ここで大切なことは、聖書の言葉を、頭(知性・マインドの次元)に受け入れるだけではなく、心(霊性・スピリットの次元)にまで深く受け入れることです。そうすると、その人の内に一大変化が起きてきます。それは「キリストによって全く新しく生まれる」(2コリント5:17)という体験です。そうすると、当然にその人の物事の見方、行動のあり方が全く新しくなってくるのです。
「イエス・キリスト」を信じるとは、要するに、その人の心に神であるキリストがお住まいになるということです。それはその人がキリストに結ばれてつながるということであり、その結果として、キリストの持っているすべてのものを共有して享受できるようになるということです。永遠の命はその最も重要な部分でありますが、広い意味では、愛、喜び、平安、力、知恵、寛容、自制、健康、いやし、豊かな繁栄、安全などのあらゆる神のご性質と恵みが含まれます。
そうすると、
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1:16)
神に満ちているすべてをもって、あなたがたが満たされる・・・・・・。(エペソ3:19)
ということを、私たちが現実に体験するようになるのです。
「イエス・キリストを信じる」ことによって、イエス・キリストの、永遠の命、限りない愛、揺るがない平安、無尽蔵の豊かさ、誤りのない英知、完全な保護などによって満たされてくるわけですから、多くの問題がもたらす恐れ、不安、ごまかし、無慈悲、不寛容、強欲などのネガティブな思いをはね除けることができるのです。
そうすると、「問題があっても、もはやそれは問題ではない」ということになってきます。私たちが、「問題を問題としない」ならば、問題を解決することも容易になります。安心して問題を、全知全能の父なる神にゆだねつつ、その解決に取り組むことができます。
あらゆる問題は、天地万物の創造主なる神の御手の内にあります。神は全知・全能ですから、解決できないような問題はなにもありません。あらゆる問題は神の時に神の方法によって解決されます。
それでは、神は私たちを愛しておられるのに、どうして私たちが問題に直面することをお許しになるのでしょうか。それは要するに、いろいろな問題に直面し、それに取り組んでいくことが、私たち(特にキリストを信じる人々)の益になるからです。
神は私たちを愛しておられるがゆえに、私たちとともに苦しみながら、私たちがさまざまな問題に直面することを許しておられるのです。神の目的は、私たちが具体的問題に取り組むことを通して、私たちが、神に出会い、神に助けを求め、神にゆだね、神の導きに従い、神から受け、神を賛え、神に感謝し、神を愛していくようになることです。このようにして、私たちは神とますます親密に生きられるようになれるのです。
人間が自分たちの愛の欠如(すなわち罪)によって生み出したさまざまな問題に取り組むことを通して、神と人間の愛の結びつきは、ますます深められていくのです。
私たちが、さまざまな問題を取り組むことを通して、イエス・キリストを深く知り、創造主なる神の無限の愛と恵みを豊かに受ければ受けるほど、「ああ主よ、あなたさえおられるならば、もう十分です。この世の栄誉、栄華などはもう欲しくありません」という心境に高められていくのです(ピリピ3:8)。
要するに、本物のダイヤモンドを持った人にとっては、ガラスの玉はあまり欲しくなくなってしまいます。ガラス玉をいくらたくさん集めても、決してダイヤモンドにはならないからです。
このように、「神を愛する人々」のために、神によって「あらゆる問題は『益』となる」と言うことができます。
信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。(1テモテ4:8)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。