ホーリネスの100年
2001年5月21日と22日にわたり「中田重治宣教百年記念大会」が東京のウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会で開催されました。私の所属する基督聖協団も、旧ホーリネスから換算すると日本宣教百数年という年数になります。一口に百年と言うと簡単ですが、大変な長さです。
記念大会の二年前、同教会を会場とした第1回プレ大会で私も、「中田重治の宣教―イスラエル回復の祈りと具体的な取り組み」と題して講演させていただきました。実は、中田重治監督が興した旧ホーリネス教会の流れを汲む教団・団体などは現在、JEA(日本福音同盟)だけでも信徒数で、3割強に達します。JEF(日本福音連盟)はホーリネス系の教団などが10以上加盟していて、聖歌や新聖歌を編纂・発行しています。日本の福音派の大勢をなしているのです。
前述の記念大会の内容は『21世紀に生きるホーリネス』のテーマで出版されました。講師の一人である加藤常昭氏は、「ご存じのように、中田監督と同時代の内村鑑三氏は『再臨運動』を提唱し、実行いたしました。世の学者や神学者たちが内村鑑三の思想信条については喧々諤々の議論をするが、中田については知らないと言う。これは失礼な話である」と述べておられます。
私は、中田監督が1870年に青森県弘前市に生まれ、1898年に渡米してシカゴのムーディ聖書学院に学んだ経緯を調べたことがあります。二十数年も前ですが、ムーディ聖書学院のユダヤ学科のゴールドバーグ教授に、いろいろと当時のアメリカのことも含めて聞きました。なぜ、中田監督がイスラエルに関心を持ち、その民族的な救いを祈り始め、ユダヤ人伝道のために献金を捧げたのか、その一つの鍵は、彼のシカゴ時代にありました。もちろん、既刊の各種、中田重治伝には、彼がシカゴで受けた聖霊体験(聖潔体験)が詳細に述べられており、彼が伝道者として長年、自身に欠如していた霊的取り扱いの経緯が記録されています。
その時代、ロシアや東欧で政府官憲主導のもとに惹起されたポグロム(ユダヤ人迫害)により、大勢のユダヤ人がアメリカなどの新大陸へと移住してきました。そしてシカゴには、まだ定住化できなかった貧しいユダヤ人が溢れかえっていました。そういう中で、世界で初めてムーディ聖書学院にユダヤ人伝道のセッションができたのです。後年、中田監督は、イスラエルの救いのビジョンについて「長年、心の中で温めていたものを行動に移す時が来た」と語っていますので、彼のイスラエルへの関心はアメリカ留学時代に育まれたと理解できます。
リバイバルの始まり
1930年(昭和5年)5月19日(月)、中田監督が主宰した東洋宣教会聖書学院(通称:柏木聖書学院、東京聖書学院)に聖霊の火が降り、リバイバルが興りました。ちょうどその時、中田監督は朝鮮・満州の旅に出ていました。その日、聖書学院に学んでいた修養生(神学生)たち約70人ほどが、連日リバイバルを求めて祈っていました。聖書学院のカウマン・ホール(講堂)で夜7時半から、一宮政吉氏の司会によって定例祈祷会が開始されていたのです。
実は、ホーリネス教会では、その前年の年会で教団がアメリカなどからの献金サポートを完全に打ち切って、教会も教職も全自給の信仰に立って行くことになり、教会活動、生活全般のために神に全く信頼して立ち上がっておりました。しかし現実的には、牧師給などに困窮する教会も出てきて大変でした。そういう中から、特に教団の中心祭壇である聖書学院でリバイバルを渇望する祈りがなされ、祈りの霊が注がれていたのです。当然、救霊への重荷もわき上がり、当時の学院は祈りの霊に満ちていたといいます。
私は、この昭和5年のホーリネスのリバイバルを詳細に研究していくことで、将来、神が日本に起こそうとされている大リバイバルを展望できると信じています。前世紀末から今世紀にかけ、随分と我が国でもリバイバルが切望され、様々なムーブメントがありました。しかし何故か、かつて日本で起きたプロテスタント史上最大のリバイバルはあまり振り返られず、場合によっては軽く見られる風潮すらあったのです。
このリバイバルの時にその場に居合わせた故・谷中さかえ先生は、修養生全員に聖霊が傾注した時、「我、速やかに至らん」との厳かな御声を聞いたそうです。聖霊が充満し、皆が狂喜している時に講壇の側でひざまずいて祈っていた同氏はさらに、「汝は、我に従え」との御声をはっきり聞いたといいます。
それから八十年が経ちますが、しばらくして起きてきた教団の分離や分裂、旧日本基督教団への国策としての吸収合併、その後のホーリネス系教会への特別高等警察による徹底した弾圧、戦争などにより、聖霊によって火が降った神の器たちにも信仰が揺さぶられる事態が次から次へと押し寄せました。しかし、従うべきお方に従い通し、火の中を通って練られた器たちは、どんなことがあっても、誤解されても、軽く扱われても、どこへ遣わされても、本当に受けたリバイバルの恵みが揺らぐことはありませんでした。谷中さかえ先生は、当時、中田監督の秘書をされていた故・谷中広美先生に嫁ぎ、夫婦で最後まで監督に仕えられました。
5月19日にリバイバルが始まり、中田監督は聖書学院の異変に気付き、予定を繰り上げて25日には帰京していました。6月8日にはペンテコステ大会が聖書学院で開催され、彼はその時の説教で、このリバイバルが使徒行伝的なものであることを語り、聖霊のリバイバルとともに、悪魔のリバイバルのあることを危惧して警告しました。後に、その危惧が実現していくことになります。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。