・・・もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。・・・(第1コリント15章12節〜28節)
私たちは、この桜の美しい春に、それよりももっと深い、救い主イエスが与えて下さる恵みにふれたいと思います。
クリスチャン生活の信仰の土台とは何でしょうか。「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる」と聖書は語っています。クリスチャンとはキリストを信じる者ですが、キリストが死の力を打ち破ってよみがえられたことを忘れないでいたいと思います。
聖書は千ページ、二千ページもあり、その中には数限りない教えがあります。しかし、信仰の目玉は、イエスの復活の力なのです。この信仰の中心点を私たちは忘れてはなりません。今年も4月29日に教会でバザーがありますが、肉うどんには肉が、たこ焼きにはたこがなければいけません。そこでの目玉となるものがないと、どんなに他がよくても、味気ないものになってしまいます。
もし、イエスがただ十字架の上で死んで終わっていたとしたら、「立派な人だ」と英雄視する人はいたでしょうし、イエスの伝記や記録は少々のファンを集めたかもしれません。しかし、それがキリスト信仰となって、私たちの人生や世界の歴史にまで影響することは決してなかったでしょう。
イエスが死からよみがえられたことによって、私たちの命は変えられ、救われました。死の力を超える永遠の命があるから、私たちには希望があります。たとえ死んでも、それで終わらない希望があるのです。たとえ今日死ぬことがあっても、私たちは大丈夫なのです。そんな本当の希望に生きることができるのです。
1.歴史上の事実であるイエスの復活
イエスの復活とは、単なる神話や想像の物語ではなく、歴史上の事実であったということを、聖書ははっきりと語っています。
マタイの福音書28章6節には、「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て納めてあった場所を見てごらんなさい」という天使のことばがあります。イエスの死体の納められていた墓は、「からの墓」になっていました。イエスの身体はもはやなかったというのです。イエスのよみがえりは、ただ幽霊のように霊魂だけが出てきて私たちの心に語りかけてくれたというのでなく、肉体を伴ったよみがえりでした。
また、第1コリント15章5〜6節には、復活のイエスは、1人、2人にではなく、5百人以上の兄弟に現れた、とあります。ただ心に感じたとか、声を聞いたような感覚というのではなく、数多くの目撃証言を伴っていたのです。
さらに、使徒の働き2章32節では、イエスの弟子たちみなが町の中に出て行って、多くの人に、「私たちがキリストの復活の証人です」と叫んでいます。その姿は、我が命かわいさにイエスを捨てて逃げた臆病な姿とは似ても似つかぬものです。だれひとりとして、イエスのよみがえりを否定せず、むしろ、この後イエスの復活を宣べ伝え、殉教する者にまでなったのです。
何がいっせいに彼らの人格をここまで劇的に変えたのでしょう。考えられることはただ一つ、彼らはイエス・キリストの死からのよみがえりを目撃し、よみがえりの主イエスが与えて下さる聖霊に満たされたからに他なりません。
2.私たちに恵みを与えるイエスの復活
イエス・キリストの復活は、私やあなたのための復活なのだということを知って下さい。
人の生きる道や道徳観、倫理観だけを見れば、よい宗教はいくつもあるでしょう。しかし、へブル人への手紙9章27節に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。この定められた人間の宿命から、何によって私たちが救われるのでしょう。
宗教を超えて、救い主イエス・キリストは私たちに死を超える命を約束して下さいます。そして、神のさばきの座に立つ時も、私たちの罪をきよめて、私たちをとりなして下さいます。キリスト信仰は単なる人の生きる道を教える宗教とは違います。道徳や倫理観の集大成ではありません。イエス・キリストは私たちの罪を背負って十字架で死なれました。だから私たちはさばきの座でも安心して立てるのです。人が逃れることのできない死とさばきという宿命を乗り越える救いの道を、キリストは十字架と復活によって成就して下さったのです。私たちに恵みと救いを与える、ただ一つの事実、イエスの復活を心から感謝しましょう。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。