どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。(テサロニケの信徒への手紙一、3章12節)
教会は、新年度を迎えました。私の仕える多摩ニュータウン・バプテスト教会は、今年度の祈りの課題として「今のままで良い!」を掲げました。そして年間主題聖句としてテサロニケの信徒への手紙一、3章12節が導かれました。私たちが「今のままで良い!」ということのためには、それが成立するための諸条件を真っ先に思案しがちです。パウロは、こう語ります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマの信徒への手紙5章8節)。すなわち神さまの愛によって、あるがままの自分が既に受け入れられていたのです。あるがままの自分とは、「罪人としての自己存在」のことです。神さまの御前に「罪赦された自己存在」として受け入れられています。しかも「神の子」としての身分を保証されて立たされています。だから「今のままで良い!」のです。
今もなお世間に流布するキリスト教会に対する誤解があります。キリスト者が道徳的に生きることが信仰的に生きることなのだと誤解されがちではなかろうか。その逆なのです。信仰的に生きることが神さまの御前に道徳的なのです。信仰的に生きるということは和解の福音に生きることに他なりません。酒・煙草の習慣を戒律的に止めることが信仰的なことではなく、信仰的に生きるとは、生き方の方向転換が起こされることです。それによって「かつて」と「今」が変容します。それがキリスト者の聖化の生活です。その要は、自分の努力としての心がけというものではなく、福音の恵みとしての「献身」です(ローマの信徒への手紙12章1節から3節)。したがって恵みとは、駆け引きなしの無代価でイエス・キリストさまを通して与えられる、父なる神さまとの和解です。そして罪赦されて生きることの表れとして、世間で言うところの道徳的生き方、すなわち聖化の生活の実(御霊の実)を結ぶことになるのです。この違い(道徳的な生き方・信仰的生き方)は、一見、判別し難いのです。戒律的に生きるが故の道徳的ではなく、福音的に生きるが故の聖化の実を結ぶのです。この違いは聖霊さまが明らかにしてくださる事柄です。確かに霊で始めたことを肉で仕上げようとしてするのは、肉体を持つ人間の性です。こうして霊と肉の緊張関係は、私たちが世に長らえる限り、霊肉の闘いとして続きます。ですから「わたしたちの闘いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」なのです(エフェソの信徒への手紙6章12節)。
聖霊さまは、私たちに「赦しの奇跡」を起こしてくださいます。先ず自分との和解を導きます。自分の中の許せない否定の執心は、他人への否定の執心として反映されます。よく「自分に厳しく人さまには優しい」という言葉が独り歩きしてしまいがちですが、自分に厳しい人は、大抵の場合、他人にも厳しいところがあるものです。既に自分の中に厳しく査定する基準があるのです。心の中では既に査定しているのですが、それを表面に表わさないから他人には優しいように見えるのです。心の中で既に姦淫を犯しているのと同じことです。ほんとうの優しさは、平たい言葉で言えば、それを気にしないこと、気にならないことではなかろうか。世を達観したような見解を述べているようですが、それができるためには聖霊さまの御助けに拠り頼まなければなりません。聖霊さまに拠り頼むとき、それができるのではなく、できてしまうということです。見方を変えれば自分の努力ではできないということです。聖霊さまが御支配くださるとき、できてしまう自由があります。ですから称賛されても自分には全く気にならなくなり、あまり自分がほめられてばかりいると神さまに悪いような気がするので、それで主をほめ称えるようになります。
聖霊さまの御導きに助けられて自分と和解したとき、他人、すなわちお互いの愛を分かち合うことができるようになります。主はそのように御導きくださいます。パウロは、それを信仰の出来事として理解していました。だから「どうか、主があなたがたを」と勧めます。自分がではなく主がそのようにしてくださることを願うところに、パウロの福音理解があります。自分の無力体験を通して、信仰によって主がそのように御導きくださる事実を経験として認識したのでしょう。きっと聖霊さまに拠り頼みながら、祈るような思いでこの書簡を書き送ったことでしょう。なかなか人間関係は容易ではないのです。御言葉に親しむということは、学校の黒板の端っこに書かれている週間標語のように字面を読むようなものではないのです。私は、牧師になって初めて気がついて良かったと思うのですが、なかなか教会の人間関係の調整は容易ではないのです。容易だと思っているから牧師になったようなものです。どの世間も同じです。主の御前に祈るのみです。
ところで、今日掲げた御言葉は、お互いの愛がお互いの間に止まってしまうのではなく「すべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と勧めます。和解の福音の恵みは、「分かち合い」の実践を促します。つまりお互いが満たされるだけでなく、あふれさせます。あふれてしまうから「もったいない恵み」として分かち合うのです。確かに教会は良きものが満ちあふれるところです。讃美に満ちあふれ、喜びに満ちあふれ、笑いに満ちあふれる。こうして1人ひとりが主にあって輝いていくのです。そして神さまの御臨在の満ちあふれる礼拝共同体として整えられます。先ずは私たち1人ひとりがお手本を示しましょう。パウロは、こう語ります。「わたしたちがあなたがたを愛しているように」。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。