ローマ教皇ベネディクト16世が今月24日に「世界広報の日」のためのメッセージを世界に向けて発した。その中でローマ教皇は、性的・暴力的なシーンをあからさまに描写しがちなビデオゲームやアニメを「背徳的」であり「不快」であると非難した。
「世界広報の日」とは、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などのメディア媒体を用いた福音伝播のあり方について教会全体で考察する日。1967年から始まり、今回第41回目を迎える2007年の世界広報の日のテーマは「Children and the Media: A Challenge for Education(子供とメディア、教育のための挑戦)」となっている。ローマ教皇はメッセージの中で、子供たちの家庭教育におけるメディアの影響力とその役割について終始言及した。
メディアの役割を一言で表現するならば、「情報を公に伝える」ということだろう。しかしメディアには両面性があることを忘れてはならない。メディアは有益で教化的な情報を伝え、われわれが必要としている知識と教養を供給してくれるが、時にメディアは有害で悪質な情報を伝え、われわれの良心と正しい判断力を汚しがちだ。そしてその悪質なメディアによって最も深刻な被害を受けているのが感受性豊かな子供たちである。ローマ教皇はメッセージの中で、悪質なメディアが子供たちの性格、態度、生活習慣の形成に悪影響を及ぼす可能性があることを危惧し、警告を発した。
この「諸刃の剣」とも言えるメディアはわれわれクリスチャンにとって益となるのか、それとも害となるのか。結論を言えば、それは使い方によって益にもなるし害にもなる。
クリスチャンとはイエス様も話されたように「子供」のような存在だ。子供のように純粋で聖(きよ)い心を持つことこそがクリスチャンの本来あるべき姿なのである。しかし今クリスチャンたちは神の国に入るための第一原則であるその心の聖(きよ)さと純粋さを簡単に失ってしまう社会の中に生きている。
ポルノ映画、アダルトビデオ、アダルト雑誌、淫らな行いや暴力的なシーンを映し出したテレビ番組や映像がどれだけ子供たちの無垢な心を傷つけ、純粋さを汚し、その人格形成に悪影響を及ぼしているだろうか。最も恐ろしいことは、今日インターネットという近代メディア媒体を通してそのような悪質な映像や描写をいとも簡単に視聴することができるということだ。インターネットにアクセスさえすれば、年齢や性別に関わらず誰でも容易に性的・暴力的な映像を見ることができる。これでは親も防ぎようがないというわけだ。
それは、われわれクリスチャンにとっても例外ではない。イエスは山上の垂訓の中で目で犯す罪について言及し、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです」と話して弟子たちを戒めた。それにも関わらず、われわれは、俗悪な映像を見ることによって自分の目を穢してしまうクリスチャンとなってはいないだろうか。そのような俗悪な映像を見るたびに自責の念に駆られて自虐的になり、真の信仰と敬虔な姿で生きることをあきらめてしまうクリスチャンも少なくない。今われわれクリスチャンは「俗悪なメディア」という名のサタンに完全に包囲されている状態なのだ。
われわれクリスチャンはこのサタンの強力な誘惑に対してどのように対処していけばいいのか。いくら聖書が目で犯す罪について戒めていても、いくら牧師が教会で悪いものを見てはいけないと訴えかけても、結局自分の信仰を守るのは自分しかいない。アダムとエバは蛇の誘惑に惑わされ、善悪の知識の木を見て、手にとり、その実を食べてしまった。それが人間の堕落の始まりであったことを忘れてはならない。
信仰を守るにはどうすればいいのか。簡単に言えば悪いものを見ずに良いものだけを見るように努めればいいのである。メディアは先ほども述べたように「諸刃の剣」のようなものだ。だから自分にとって有益な情報だけを吸収しようとすれば、それは信仰の成長を助けてくれるだけではなくサタンと戦うための強力な武器へと変わる。
新聞やテレビが中心だった社会にインターネットが導入されて以来、われわれの信仰を揺るがすサタンの攻撃が激しくなったことは紛れもない事実である。しかし一方インターネットの普及によって福音伝播活動が全世界的に拡張され、われわれクリスチャンのイエス運動が公に明るみに出されるようになったこともまた確かな事実だ。
だからこそ今われわれクリスチャンは目を覚まさなければならない。メディアを通して福音の良い知らせを積極的に述べ伝え、サタンとの戦いに勝たねばならないという使命がわれわれにはある。性的・暴力的な映像や描写の虜となり俗悪な世界に甘んじてしまった人々は、いま、愛の御言葉と福音の美しいメッセージを魂の底で求めている。あらゆるメディアをもって福音を述べ伝え、キリストの文化を育み、それをもって彼らの渇きを満たしてあげることが情報化社会という今日の時代に生きるクリスチャンの使命の一つである。