知恵を尽くして互いに教え、諭し合い・・・(コロサイの信徒への手紙3章16節)
私たちは生物学的には「ヒト科」に属しますが、社会学的には「人間」として共同体の一員です。そして自己と他者との「間」を繋ぐ「コミュ二ケーション」の営みがあります。私たちは共に生きる存在です。それを共存と言います。共に生きる秘訣は共有の自覚です。平たく申しますと、双方向性のお互いであるということです。御言葉は、こう語ります。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」(16節)。換言するならば、教えることも諭すこともお互いさまであるということです。決して一方的な営みではありません。共同体の一員として、このような「双方向性」を忘れてはいけないと思います。それが保たれている限り、共同体は確実に成長に向かいます。
世には「異業種交流会」なるパーティが開かれ、お互いの情報交換と自己啓発の学び会を行います。教会共同体こそは、主に在る異業種交流の場であると言えましょう。私は20代の青春を神学校生活に過ごしました。そして教会の兄弟姉妹との出会いと交流を通して多くの学びをさせていただきました。教会は職業や社会の諸々の立場を越えて1つになれるところです。この事実を忘れてはなりません。お互いに知恵を尽くして教え、諭し合います。「お互い」に、そして「合い」という営みがなされる教会共同体の交わりは、ほんとうに素晴らしいものです。このような社会が他にあるでしょうか。気をつけないとどんなに素晴らしいことも、いつの間にか当たり前になってしまいがちです。そして有り難いことへの感謝をどこかに忘れてしまいます。ほんとうに「もったいない恵み」なのです。
コロサイの信徒への手紙を特徴づける「キー・ワード」があります。それは「以前は」に対置して「今は」であり(3章7節)、かつての「古い人」に対置して今の「新しい人」(3章9節)です。そして和解の中心はすべてを御支配くださるお方、イエス・キリストさまです。コロサイの信徒への手紙は、イエス・キリストさまに在って結ばれた生活倫理を明らかにします。既述の通り、知恵を尽くして互いに教え、諭し合うことです。私は神学校を終えて牧師として教会に仕えるようになって34年の年月が経ちました。その間の喜びは、その人が以前に比べて、その人らしい今へと変えられていく様を目の当たりにすることです。実に人は「変わり得る存在」なのです。それは決してその人が変わって別人のようになってしまうのではなく、本来のその人らしさへと開かれて輝いていくことです。本当に素晴らしい人生を歩まれるようになります。人生に感謝を見つけるようになるのです。こんなに素晴らしいことが他にあるでしょうか。
ところで教会共同体の特徴は、礼拝共同体であるということです。お互いに知恵を尽くして互いに教えることも諭し合うことも礼拝をささげ、主の御心を伺うことから始まります。共に御言葉に聴き従い、神さまに讃美をささげるという方向性を明らかにします。すなわち向かい合うお互いの方向があります。それが共同体を健全ならしめます。お互いにそこで自己完結してしまうのではなく、教会の頭であられるイエス・キリストさまに向かって共に礼拝をささげます。それによって自己の成長と共同体の成長が相互補完的に営まれます。
私たちが神さまの無条件愛に生き、赦しの奇跡を分かち合うことは、いつもの礼拝を大切にすることです。礼拝こそは、互いに教え、諭し合うことの祝福の基いを指し示します。それは恵みによる救いです。恵みによって始めたことを恵みによって仕上げていくのです。思うにキリスト教界は今、世俗の時流に流され、癒しブームに低落してはいないだろうか。世の多くの教会は、教勢不調に沈滞しているか、あるいは異様な高揚感に落ち着きを失いかけそうになってはいないだろうか。多摩ニュータウンという東京の郊外に身を置いていると、驚くほど冷静にキリスト教界の推移が見えて来るものです。知恵を尽くして互いに教え、諭し合いたく願う。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。