私はクリスチャンになってから主に、祈りに関わる3つの聖句に頼ってきた。
その一つ目は、マタイ18章19節である。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」
結婚式のとき、妻の父が交換するようにとくださった皮表紙の聖歌に、私が記した聖句である。長い年月を主の恵みにより過ごさせていただいたが、2人でどんなときにも祈ることができたのは幸せであった。
私がより頼んできた二つ目の聖句は、ピリピ人への手紙4章6節から7節である。
「何も思い煩わないで・・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」という聖句に何千回もより頼んだ。「どんなことでも、くよくよするな」ということである。神は私の祈りに耳を傾けてくださって、人のすべての考えに勝る平安を与えて導いてくだっさった。
三つ目のみことばは、再臨の書簡といわれるテサロニケ第一の手紙5章16節から18節である。常時喜悦、不断祈祷、万事感謝は、聖めをいただいたクリスチャンの心の三面鏡であり、毎日この鏡に心を写すのである。
主イエスは、祈りについて弟子たちに教えられるとともに、朝早くから祈られた。マルコ1章35節には「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて祈っておられた」と記されている。主イエスは、祈りによって父なる神と交わることで、生活の原動力を得られた。
「祈りによる力」(E・Mバウンズ著)に、「地上において、神のために最も大いなることを成し遂げた人々は、古来、朝早くから祈った人々である」と記している。「朝の祈りは金の祈り、昼の祈りは銀の祈り、夜の祈りは銅の祈り」と言われる。私は名古屋教会で信仰を持たせていただいたが、毎朝6時から7時までの祈祷会に導かれた。いま考えると、聖霊が私を祈りの座に導いてくださったとしか考えられない。私の寮は2人部屋だった。同室の彼に迷惑をかけないよう目覚まし時計をかけないのに、毎朝目がさめて祈祷会に行くことができた。
献身し、兄弟団の聖書学院に入学したが、当時の学院の祈祷会は5時からであった。4時40分起床で7時までの激しい祈祷戦であった。鹿児島教会につかわされ、朝6時からの祈祷会を続けた。青年や、高校の教師が祈りに来られた。
東京の大久保教会で結婚式を挙げ、網走に派遣されたときも、近所の加藤とくえ姉が毎朝6時からの祈祷会にみえられ、妻と私と3人で心をあわせて祈った。網走の冬はマイナス20度から30度にもなる。姉妹は召されるまで、約8年間祈りにきてくださった。祈る器は、教会の隠れた宝である。加藤姉のお孫さんは、現在、四国で牧師をしている。また、目黒に加藤姉の息子さん夫妻と、3人のお孫さんが信仰に励んでいる。朝の祈りがいまになって聞かれているのを見ることができる。
神は兄弟団に、朝の祈りを大事にするよう、主イエスに倣うよう招いてくださっているように覚える。
目黒教会と姉妹教会を結んでいる韓国の三陟中央教会は、朝5時から6時までを朝の祈りの時としている。学院は、6時から7時まで早朝祈祷会である。3千名をこえる兄弟団のクリスチャンが朝一番に祈ったら、すばらしい神のわざが起こるに違いない。各教会に救われる方々が起こされるように祈ろう。
最後に、あなたの教区から献身者が起こされるように祈ろう。使徒の働き12章でペテロが獄中につながれたとき、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と記されている。その結果、主のみ使いが現われ、ペテロが救出されたのである。使徒の働き16章には、獄中につながれていたパウロとシラスが、真夜中の賛美と祈祷に打ち込んだことが書かれている。その結果は、大地震が起こり、看守一家が救われて洗礼を受けたのである。祈りは奇跡を生む。
妻の母、池本きねは祈りの器であった。「お好さんの生活史―ある庶民の戦中・戦後―」(清水好著、清水寛編集・解説)に次のような記事がある。
「昭和22(1947)年に、池本さんの5歳になる女のお子さんが召されました。召されるすぐ前に、私は池本さんの家に駆けつけました。池本さんの家は仏教で言う鬼門に当たって居るので、私が占って、子供の病気を治してあげようと思ったからです。その死んで行くわが子を前に、池本さんは祈り出しました。この子を、神様、あなたのみ手におささげしますから、天に召してください・・・。この宗教こそ本当の宗教だと解りました・・・」。後に清水好さんは熱心なクリスチャンになったのである。
今年もどんなときも祈り、神のわざを拝させていただこう。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。