イザヤ書2章から4章は、イザヤが預言者として活躍した初期のものであろうと言われています。その頃は、ウジヤ(紀元前760年頃即位)が南王国ユダを治めていました。その繁栄ぶりは、目を見張るものがあったと言われています。「アモン人はウジヤのもとにみつぎものを納めた。こうして、彼の名はエジプトの入口にまで届いた。その勢力が並みはずれて強くなったからである」(2歴代誌26:8)。
イスラエルの先祖は、エジプトにあって四百年に及ぶ奴隷の生活をしてきました。そこからモーセによって救い出され、シナイの荒野をさまよい、アモン人やモアブ人との戦いに遭遇し、十分な武器もなく苦戦を強いられたのでした。
そのイスラエルが、今は他国からの貢物を受ける一大王国となり、その勢力はエジプトにまで及んでいき、軍勢の数は三十万余に達していたと言われています。
こんなにも繁栄したのですから、神は大いに喜ばれたと思うのですが、悲しいかな、事実はそうではありませんでした。なぜなら、彼らの繁栄が本当のものではなかったからです。繁栄と言っても、神の御旨に反する繁栄があるのです。預言者イザヤは申します。「まことに、あなた(神)は、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜(ぼく)者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる」(イザヤ2:6〜8)。
金や銀に富むこと、あるいは馬や戦車を多く持つこと、それ自体を罪と言うことはできません。しかし、物を多く持つようになる時、人の心はとかく物が全てで物なくしては生きていけないと思うようになるものです。
神は、イスラエルの民がそのようになってしまうことがないように、彼らを厳しく諭してこられました。例えば「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない・・・多くの妻を持ってはならない・・・自分のために金銀を多くふやしてはならない・・・」(申命記17:16〜)などと記されています。
しかし、彼らはそれを守りませんでした。ですから神は、御自身の御威光の輝きをもって彼らを打ち砕いてしまわれるのです。イザヤ書2章で深く心に留めるべきはこのことです。「岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる」(イザヤ2:10〜11)とあります。
人は神のさばきの起こる時、どこへ身を隠すのでしょうか。「ちりの中に身を隠せ」とか、「洞窟にもぐり込んだらよい」とあるのですが、これはイザヤが皮肉を込めて申している言葉です。「頭隠して尻隠さず」ということわざがありますように、神の前において身を隠すことができる、と思うほど愚かなことはありません。なぜなら、神は光であられるからです。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(1ヨハネ1:5)とある通りです。
私どもは、人の前に自分を隠そうとすることがあります。しかし、「目は口ほどにものを言い・・・」と言われていますように、口を閉ざしても目がその人を語っているということがあります。人間の知力はその程度しか判断できませんが、神のそれはその程度のものではありません。「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています」(ヘブル4:13)とも言われています。
しかし、ここにはイザヤを通して主なる神からの親しい呼びかけがあるのです。イザヤは言います。「来たれ、ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう」(イザヤ2:5)と。
ヤコブの家とは神の民イスラエルのことです。そして、私たちも今、この呼びかけを受けている者として十分に、神の民になり得る恵みの中にある者です。神は、私どもが暗いところをはい回るようにして生きることを好まれません。明るい光の中で、平安と希望、愛と喜びをもって、健全な生き方をすることを欲していて下さるのです。動物でも植物でも、全て生きている者は、太陽の光が必要です。ましてや私ども人間は、霊的な命の光を必要としています。
それでは、「光の中を歩む」とはどのような歩みなのでしょうか。いくつかの点から考えて見ましょう。
まず第一のこと。神の前に全てをさらけ出すことです。全てを見て、全てを知っておられる神の前に、自らの弱さ愚かさ、罪深さも全部ありのまま告白することです。つまり、素直な自分になることです。“全てありのまま、露だに飾らず、我御許(みもと)に行く”という賛美歌があります。自分をよく見せようとする思いを捨て去って「弱い私をあわれみ、罪を赦して下さい」と告白する時、神はその心の中に命の光を注ぎ込んで下さることができるのです。
第二のこと。光の中を歩む第二のことは、信じて従い続けていく生活です。信じて従い続ける中に、与えられた霊的な灯は光を増し、その歩みが確かにされ、勝利へと繋がっていきます。
それは、主イエスと共に十字架を負う道でもありますから、苦しみが無いわけではありません(マタイ16:24)。しかし、主は十字架の道を通って、復活の栄光に向かわれたのです。神と人とのために喜んで十字架を負うて生きていく時、神は、私どもの心を豊かな命の光をもって満たして下さるのです。
第三のこと。光の中を歩く第三のことは、人々を、暗闇の中から救い出す働きに参与することです。
「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」(ダニエル12:3)と約束されています。
この世界は、光と闇とが対立しています。それは、善と悪との対立であり、命と死との対立です。一方にはサタンが支配しようとしており、一方には主なる神が支配しておられ、最後の勝利は主が約束しておられるのですが、それでもサタンは激しく攻撃を仕掛けて、光の子らを闇の世界に引きずり込もうと必死なのです。
しかし、イエスさまは、私どもキリストを信じる者の立場を明確に保証して下さいました。「あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:14)と言われました。また、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)とも言われました。
私どもは、多くの弱さを持ち、欠点だらけの者です。ですから私どもは、自分の力で光り輝くことは、決してできはしないのです。それにもかかわらず、「あなたがたは、世界の光です」と言われているのは、イエスさまが真の光(ヨハネ8:12)であられ、その光を受けている者であるからです。イエスさまは「私を離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われている通りです。ですから、私たちがキリストの光に照らされている限りにおいて、世界の光として輝き続けることができるのです。その尊い光の中で罪を告白して赦しを受け、その愛と恵みの中に生きる時、私どもは世界の光としての使命を果たし、それによって、光の子を生み育てていくことができるのです。
月は美しい。しかし月に光があるわけではない。太陽の光を受けて輝く。我々も・・・主の光の中で輝く。
イザヤは、イスラエルに呼びかけて申しました。「来たれ、ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう」(イザヤ2:5)と。
主の光の中を歩み続けるなら、暗闇にさまよう多くの人々は、惨めで絶望的な自らの姿に気付いて私たちと同じ命の光を見出し、光の中に生きる幸いを得ることができるに違いありません。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)など。