心の奥底で、存在の根底からひそかな語りかけを聞いた。「イエスよ。ここに描かれている子羊とはお前のことだ。」イエスは静かに目をとじた。
イエスの脳裏に子羊の姿が描かれた。痛めつけられていた。苦しみもだえているが口を開かない。ほふり場にひかれて行く子羊のように、口を開かない。
次に浮かんできた絵は、さげすまれ、のけ者にされ、その顔がひら手打ちをくらい、こぶしで殴られ、唾をはきかけられていた一人の男。くりかえし鞭が与えられ、その背中はかき裂かれた。一振りの鞭が背中に当たるごとに、その映像があまりに生々しいために、イエスはうめき声を発した。
ついに十字架に釘づけられる男の姿。「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」男は叫び声をあげた。
ほふられている子羊と十字架につけられた男が重なった。声が聞こえてきた。
「わたしに従ってきなさい。自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
全身がけいれんしはじめた。からだがはげしくもだえた。痛みがからだの芯で燃えた。苦しみは全身をおおった。立っていることも坐していることもできないイエスは床にうつぶせになった。もだえ苦しむからだは灼熱のように熱く燃え、あぶらあせが血のしたたりのように床におちた。
声が発せられた。自分の思考や意志から語られたのではなく、からだそのものがうめき、からだの芯がはきだしたことばだ。
「この杯を取り除いてください。この杯を取り除いてください。この杯を取り除いてください。」あたかもこのことばだけしか存在しないかのように、このことば以外はないかのように、岸辺に寄せては帰るさざ波にように、イエスのからだが延々同じことばでうめき続けた。「取り除いてください。」からだはもだえつづけ、うめき声は6時間にも及んだ。イエスは憔悴し、そのからだには一滴ほどのエネルギーしか残っていなかった。
痛み苦しみが極限に達したその時、新しいことばがにじみ出た。最後の一滴ほどのエネルギーを振り絞って発せられたのだ。しかしそれは、からだの声ではなく、心の声であった。それはかすかな小声だったので、神のみにしか聞こえなかっただろう。「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。御心のままに。」次の瞬間、イエスは意識を失い、深い眠りに落ちた。
「ヨハネ先生。イエスは病気です。昏睡状態におちいり声をかけてもからだを揺さぶっても起きません。」ヨハネは「よい、よい。寝かせたままにしておけ」と答えたが、はたして昏睡状態は3日間に及んだ。
ヨハネにとって、イエスがメシヤであることは少しの疑いの余地がないほど明確であった。そして、そのことはイエスに告げてはならないことであった。イエスは主なる神から直接、啓示を受けなければならない。主はその時、そのことば、そのやり方をおもちのはずだった。自分が決して口をはさむべきでないことをよく心得ていた。ヨハネは、昏睡状態で憔悴したイエスの顔を見たとき、イエスがその存在全体で主の声を聞いたことを悟った。「イエスがわたしのもとを去って行く日がきたか」と一言つぶやいた。(次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。