【CJC=東京】16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンの生誕500年を記念する催しが世界各地で催された。その中で南アでは教会に止まらず、国家・社会の深部に至るまで、カルヴァンの影響は大きく、今日でもなおその渦中にある。
南アに欧州から入植したのはオランダ改革派教会の信徒だった。南ア最大の悲劇とも言えるアパルトヘイト(人種隔離政策)をカルヴァンの教えを援用して神学的な基礎付けをしたのも同派の神学者だった。現在でも、白人主体の教派では、それを否定していないところがあるほど。ただ一方でアパルトヘイトを強く批判、反対する動きが同派の中から出て来たことも確かだ。
1685年、フランスで信仰の自由を保証した「ナントの勅令」がルイ14世によって廃止されたのを受け、厳格なカルヴァン主義者であるユグノー派がオランダに脱出した。オランダ東インド会社の手配で、5年間の予定で南アに移住することになった。インドネシア入植者のために野菜や果物を補給するため、ということで農場と農機具は用意されていたが、中には医師、教師、牧師、弁護士もおり、結局、カープスタット(ケープタウン)を中心に南アに腰を落ち着けることになった。
勤勉という労働倫理を推奨したカルヴァンの影響を受け、南アのユグノー派は教会と経済に重要な役割を果たし、国の将来を左右するようになった。
ユグノー派によって始められた南ア改革派教会は19世紀末までに、黒人、混血、インド系、白人と人種によって分離されるようになり、20世紀に入ってそれぞれの教会を形成するようになった。
1948年、ダニエル・マラン牧師が首相となり、「隔離」という伝統的な人種政策を、与党の政策とした。60年代に入って、改革派教会のベイヤーズ・ノーデ牧師らが反アパルトヘイト活動を精力的に行った。彼自身、白人優越主義の秘密結社『ブレーデルボンド』のメンバーでもあったが、60年のシャープビル虐殺事件をきっかけに、反人種隔離活動に参加、63年には教会を追放され、政府から公的な場での演説禁止などの処分を受けた。改革派神学者の革新派は黒人も白人もノーデ氏を支援したが、政府側から非難の的とされた。
ノーデ氏は、反アパルトヘイト闘争の先鋒だったアフリカ民族会議(ANC)に加わり、94年には白人与党との政権交渉に、ANCから唯一の白人として参加した。
先ごろ、米改革派教会総会で南ア・ステレンボッシュ大学のラッセル・ボットマン牧師は、学生時代に、カルヴァン主義によって正当化されていたアパルトヘイト神学とどのように決別したか、を語った。「78年春のある日、アパルトヘイトは、異なった人種間の不和を出発点にしており、それはイエス・キリストの和解の福音の核心と対立するものなのだ、との結論に達した」と言う。
82年には、世界改革教会連盟がカナダのオタワで開催した常議員会でアラン・ブーサク牧師が議長に選出された。当時ブーサク氏は、混血のオランダ改革派教会議長だった。ブーサク氏は、カルヴァンとカール・バルトの教義に関する神学的理解を展開した。キリスト者はキリストの福音の核心において和解の証人であるという神学理解は、もはや南半球の一角のものではなく、改革派の伝統と教会を通じて超教派的な課題だ、とボットマン氏は語った。
同大学のディルク・スミット教授は、80年代から90年代に黒人系改革派教会が反アパルトヘイト闘争で果たした役割について、「アパルトヘイト政府の正当性について、教会が声なき人の声となることについて、公共の場面に積極的に参画することの限界について、良心的兵役拒否など市民としての不服従の権利について、非暴力抵抗の可能な形態について、自由のための暴力と武力闘争の正当性についてまでも、当時は激しい議論を交わした。これらの議論の中で、弱者を守り、圧制に抵抗するため、為政者の責任に関するカルヴァンの信念は重要な役割を果たした」と語った。
スミット氏は、南アで今日カルヴァンを覚えるということは、ただ彼を賞賛することを意味しているのではなく、今なお有効なその遺産と伝統に立脚している、と言う。同大学で8月30日から9月2日まで「カルヴァン09会議」を開催する。