最近米国では、ダーウィンの進化論に対して、何らかの「知的設計」によって人間が生まれたとする「インテリジェント・デザイン:知的設計」論が台頭している。知的設計論は、「自然は非常に複雑で、ダーウィンの進化論が主張する無作為の自然淘汰(とうた)で説明することはできない」として、高度な「何らかの意図をもった知性=知的設計者」が介在しているとする考え方であり、すでに米国の一部の州教育委員会では、こうした反進化論的な知的設計論を採用し始めている。
進化論の登場以来、近代科学の発展と伴って聖書が語る創造論はその根拠と価値を失い、多くの人々が信仰を捨てるに至った。今回、進化論の対抗馬として現れた知的設計論は「科学の洗礼を受けた創造論(科学的事実を否定しない創造論)」として多くの未信者や無神論的な科学者を納得させると期待されている。特に知的設計論ではこの知的設計者を「神」と表現していないことから、科学的根拠を持つ理論として広く一般に受け入れられはじめている。
では、この知的設計論が我々クリスチャンにとって意味するところは何であろうか。神の創造を疑わず、この世界は決して偶然な自然淘汰でなく、神のご計画と摂理に従って造られ守られる世界であることを信じている我々にとっては、その「事実」を多くの未信者に伝えるための強力な武器を手に入れたことになる。無神論者や神を信じない人々を、知的設計論を通して、「神」の存在、あるいは神とまでは言わないが、この世界の根本となる絶対的な存在に気づかせることが出来る。知的設計論の登場によって我々の持つ理性と知識で、「神」の存在を理性的に認知し得る時代になったと言える。まさしく使徒パウロが「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)と証している通りであろう。科学が発展し、人々の意識が成長するにつれ、むしろ「神」の存在を否定する弁解の余地がなくなるのではないだろうか。この壮大で美しい自然、宇宙を調べることで、我々をお造りになり養ってくださる「神」をより深く感じることができる。まるで詩篇の記者が「昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩篇19編)と詠ったように、すべての被造物が創造主なる「神」を賛美し、我々に創造主の知識を伝えているではないだろうか。
今回の知的設計論に関する一連の論争は多くの人々に「神」の存在を深く考えさせる契機になった。しかし、この新しい理論は完全に「神」の創造を知らせているわけではなく、あくまで学説であることを忘れてはいけない。自然神学による神の推察はすでに古代ギリシャ時代から考えられてきたことである。人類は昔も今も永遠に変わらない究極の真理を求める存在である。この世のすべての学問、哲学は人類存在の根源である「神」を探る努力の結果といっても過言ではない。人類は堕落以降、「神」と対敵しながらもその霊はいつも「神」を捜し求めている。数知れない知者たちが計り知れない年月をかけて得ようとしても得ることが出来なかった真理、それは「神が存在する」ということよりは、「神はどういう方か」についてである。残念ながら知的設計論がその根本的な答えを与えてくれるわけではない。
では、誰もが手にしたいと願っている真理は一体どこにあるのだろうか。キリストを信じるクリスチャンはなんと幸せなのだろうか。我々クリスチャンは、この話を知っている。2000年前ユダヤのある青年の話を。彼は漁師らに教え、貧しい人々を愛し、多くの病人を癒し、らい病人を抱き、罪びとを赦した。すべての人々の罪を背負って十字架に処せられた。パンを裂き、多くの人に分け与えるように、裂かれて血を流す彼の死が我々に命を与えた。十字架の事件は「神」自らがご自身を表した啓示の出来事であった。イエス・キリストに召された我々に表してくださった神の姿、十字架と復活、キリストの犠牲と謙遜、これこそが数多くの人々が捜し求めていた真理だったのである。我々に示してくださった「神」の在り方は「愛」であった。
神の示してくださった真理は人々の知識や理性で把握することが出来ない。愛は知識や論理や分析で説明できるものではないからだ。だからこそ我々は伝えなければならない。我々を救うために低くなられた神、我々を救うためにご自身の命までも犠牲された神を。その「知的設計者」とは、愛の神であることを。愛によって世界は創造されたことを。愛によって創られた我々は一人一人神の形にかたどられた、大切な神の愛のパートナーであることを。知的設計論が主の道を整えるバプテスマ・ヨハネの役割をするなら、神を知る者は、力強く、我々に働かれる愛の神について語るときである。我々が知っている「神」の秘密を、真理を求める多くの人々に語り伝えるときである。