【CJC=東京】米国では信心深い人の方が良い市民であり良い隣人であり、他の国よりも「驚くほど」宗教的だ、とハーバード大学の政治学者ロバート・パトナム教授。ただ若者は「はるかに現世的」なことは注目すべきだ、と言う。宗教専門RNS通信によると「若者は未来。中には宗教に目を向ける場合もあろうが、ほとんどはそうならない」と著書『独りでボウリング=アメリカのコミュニティの崩壊と復活』で指摘している。
PTAの会員が減少するなど、市民社会を結びつけるものが消えてゆくものの、宗教的な人間は、公民関係への神の贈り物だ、とパトナム氏とノートルダム大学のデービッド・キャンベル教授は調査結果を共著『アメリカの愛=いかに宗教がわれわれの市民生活・政治生活を再構築するか』で論じている。同書は年内に刊行予定。
『宗教と公共生活に関するプー・フォーラム』がフロリダ州キーウエストでこのほど開いた会議で、両氏は調査の一部を明らかにした。宗教的な人が自ら属す共同体への関与度は一般に比べ3〜4倍に達するという。共同体での活動に参加、ボランテア団体に加入、公開の集会に出席、地方選挙で投票、抗議デモや政治行進への参加や、宗教的、世俗的を問わずさまざまな運動のために時間とカネを捧げる、といったことでは非宗教的な人よりはるかに熱心だ。
宗教的な人は正に「善人」なのだ。他人の荷物を持ってやり、並んでいる列に割り込みがあっても怒らず、物乞いにはカネを与える。
市民活動への参画が増えるという調査結果は宗教指導者にとっては驚きかもしれない。
神の裁きという考え方とか、天国に座を得ようといったこととは関係がなく、人々を地域社会の行動へ駆り立てるものは、教会、モスク、シナゴーグ、寺院で作った関係なのだ。それは「感情に厚い友」であり、信仰が増せば市民活動に参画する度合いも増す、とパトナム教授は言う。
もしも「倫理的共同体」の誰から、大義名分を立ててボランテア活動を行うように求められたら、実際のところ「ノー」とは言いにくい。「教会の誰かから何かするように言われることは、ボウリング仲間から何か、と言われるのとは異なる」とパトナム教授。
礼拝などにいつも出席しても、教会で親しくしている人がいない場合には、その傾向は教会に行かない人に近い。市民活動に参加するという点では、信仰自体よりは信仰共同体の比重が重い、と教授は見ている。
しかしこれら信仰共同体は減少しつつある。さらに若者が集まらない。1950年代が米国史上で最も宗教的な時代だった。当時は市民の55%が定期的に教会などに通っていた。60年代に、性、麻薬、ロック音楽などの流行と共に、教会離れが始まった。宗教、特に福音主義信仰は70年代と80年代に勢いを盛り返したものの、90年代に入って宗教右派が政治力を付けるようになると、また下降ぎみになった、とパトナム、キャンベル両氏。「宗教の政治化とでも言われるものが、宗教に対する敵視を掻き立て、それが「非宗教主義と宗教団体と関係を持たない『無宗教』層を劇的に増加させた」と言う。
若者層の4分の1は、今も教会に来ており、神を信じているものの、アメリカの宗教が政治的になったことにはうんざりしている。とパトナム氏。
しかし誰もがそれを悪いと考えているわけでも、宗教的な人がより良い市民だとする説に賛成しているわけでもない。アメリカン・ヒューマニスト協会のロン・ミラー氏は、有神論者でなくても、有意義なもののためにはボランテアになるのは信仰者と変わりない、と言う。『世俗派学生連合』(SSA)がハリケーン被害を受けたニューオーリンズに行って住宅建設活動に協力している。「そこに行ったのは、良いことをするためで、神を信じていないから、そうしたのだなどと言ってはいない」とミラー氏は指摘している。