次に起こったいやしは、イエスのいやしの新しい特徴を表わすことになった。イエスがカペナウム村でペテロの家にいたときの出来事だ。イエスを一目見たい、イエスの話を聞きたい人々が集まり、その家の戸口の所まですきまもないほどであった。当時は、語る教師は椅子に座り、聴衆は立って話を聞いたのだが、部屋は文字通り立錐の余地がなかった。
イエスが聖書を教えていた最中、屋根の上から何かガンガンと物音がする。屋根は藁と泥でできていたのだが、そのかたまりがぼろぼろ落ちてきた。また屋根にぽっかりと大穴があいたのだ。すると、部屋の様子をのぞき見ようとした四人の男たちの顔がひょっこり現れたかと思うと、からだが完全に麻痺した中風の人を床に寝かせたままつり降ろしたのだ。
この男たちは、中風の友達を乗せた床をかついで家の戸口まで連れて来たのだが、群衆のためにイエスに近づくことができず、なんと屋根を壊すというとんでもない行動に出た。それは彼らがイエスをヒーラーと理解し、必ずいやしてくれるという確信があったからだ。
イエスは屋根の穴からのぞき込んでいる男たちに期待感あふれた表情を見たが、次に発せられたことばによって、そこにいた人々全員にショック・ウエーブを走らせた。中風の男を見つめて、イエスは「あなたの罪は赦された。」とずばり言い放ったのだ。
このことばが、なぜ人々を驚かしたのか。それは、まず、彼らが求めたのはいやしであって罪の赦しではなかったからだ。期待していない思いもよらないことばを聞いて、ふいを付かれたようだった。
それ以上に、ユダヤ人は罪を赦すことのできるのは神ひとりだけだと固く思っていた。そこにいた宗教学者たちは周知の神学論をもちだし「なぜ、あんなことを言うのか。神を冒涜している。」と、矛先をイエスに向けた。人が、罪の赦しを宣言することほど大きな神への冒涜はなかった。
イエスは彼らのするどい批判を身に感じながらも、ひるむことなく中風の男に命じた。「あなたに言う。起きよ。寝床をたたんで家に帰れ。」すると、男はすぐに床をたたみ、かついでみんなの見ている前を出て行ったのだ。目の前に展開された出来事に、どっと歓声の声が上がった。「こんなことは今まで見たことがない。」これでは、そこにいた学者たちも批難のしようがなかった。
それでは、なぜ「あなたの罪は赦された。」と宣言したのか。それは、彼の中風の原因が具体的な罪にあったからなのだ。病気はいろいろな原因で起こる。最近は、ストレスから病が起こる、という説が一般論になっているが、その通りだろう。また疲れからも老化からも起こる。精神的な不安や恐れからも起こる。いらだちや怒りからも起こる。悪霊の攻撃によって病気になることもある。そして、罪悪感によっても起こる。一つの具体的な罪が病気を誘発させることもある。つまり、罪を犯したことからくる、罪意識や罪責感は心を分裂させ、からだに微妙に影響するのだ。
イエスはこの男の麻痺状態が、一つの罪の行為から起こされたことを感じ取ったのだ。だから、からだをいやす前に、まずこの男のからだを麻痺させた原因である罪悪感を取り除こうとした。罪を赦し、罪責感を取り除き、そのうえでからだをいやしたのである。罪の赦しが行われなければ、からだがいやされても、それは短期間のうちに元に戻ってしまうに違いないからだ。
この出来事は、イエスが特殊な人物であることを明らかにした。いや、それ以上だ。彼は唯一無比である。彼のような人は他にいない。当時、イスラエルには悪霊追放者はいた。また、いやしを行う者もいなかったわけではない。しかし、罪を赦していやしを行い、罪を赦して悪霊を追放する者は先にも後にも出現しなかった。
イエスというヒーラーは、二重のいやしを提供したことがこの出来事で明らかになった。からだという外側と、心という内側のいやしだ。今日の我々は、どの時代よりも、心と体の関係をよく知っている、と私は思う。人の外面は内面とそんなに遠く離れていない。からだと心は密接につながっている。切り離して考えることすらできないのだ。
イスラエル国に病気が蔓延していた時代にイエスは登場した。病気の蔓延の原因は明らかだった。国民の心が病気で犯されていたからだ。だから、病気になりやすい精神的環境にあったのだ。
私が中学生の頃、今から四十年前、うつ病の人を見たことも、聞いたこともなかった。むしろ、うつ病ということばすら聞いたことがなかったのだ。今では、学校にも職場にも隣近所にも親戚にもあるいは自分の家の中にもいるようになった。つまり、うつ病は、もう個人の問題ではないのだ。時代そのものが病気にかかっているからではないだろうか。現代の精神病は個人の問題以上のものだ。
イエスの登場した時代は、まさに国全体が病気にかかっていたのだ。当時のイスラエルはローマの属国とされていた。プライドの強いイスラエル人にとっては耐えがたい国家的に侮辱された状態にあった。その上、国を治めた王はユダヤ人ではなく、ローマにしたたかに取り入ったイドミヤ人ヘロデ大王であった。ローマの総督府が置かれ、重要な政治的決断はローマ総督によってなされた。極度に貧しい時代ではなかったが、ヘロデ大王の圧政とローマへの納税によって国民は経済的に圧迫されていた。
病気になっていたのは政治・経済だけではなく、それ以上に宗教であった。ユダヤ人は何よりも宗教を重んじたので、宗教さえ健全であれば、国家的、政治的、経済的困難を乗り越えることができたのだろうが、肝心の宗教が大病にかかっていた。
ユダヤ教内にもいろいろな分派はあったのだが、人口の八割はパリサイ教団を支持していた。教団と言っても多くの人々が組織に入っていたわけではなく、パリサイ派のユダヤ教理解を受け入れていたというほどだが、細かく、またうるさく教え込まれていた。
パリサイ宗派の教えは、自らが作った事細かな規則を生真面目に行うことであった。特に安息日に関する規定が多く、安息日に働くことを厳しく禁じていた。たとえば、荷物を運ぶことは働くことであった。そこで何が荷物なのかという議論が起こるのだが、靴もサンダルも荷物とはならないかとか、義歯や義足も荷物と考えられないかを真剣に論じた。火をつけることは働くこととされ、その結果安息日に料理することも禁じられた。一日にどれほど歩いたら仕事とみなされるのか。書くことも、医者が病人を診ることも仕事とみなされ禁じられていた。パリサイ宗派にとっては、宗教は自分たちが作った律法の細目を行うことであり、そこには心とからだのいやしはなく、罪の赦しを確信させることもなく、神にいたる道もなく、天にいます愛なる父である神と知るすべもなかった。パリサイ宗は、重荷を負っていた人々にさらなる精神的な重荷を加えたようなものだった。
教師も生徒も、事細かな戒律でがんじがらめに縛られていて、生きる希望や力を受けることができなかった。この宗教は信奉する者に力を与えなかったどころか、むしろ罪悪感を積み上げて、精神的な病気にしていたのであった。
パリサイ宗に次いで、人口の一割ほどがサドカイ宗を支持した。彼らは当時のインテリ層で、親ローマの立場をとり、政治的に賢く動こうとしたのだ。パリサイ派が宗教的に熱心だったのに対し彼らは冷めていたし、聖書の重要な教えすら曲げていた。聖書全体から学ぼうとせず、極めて現世的で復活も天国の教えも否定した。
パリサイ派とサドカイ派の活動の場はイスラエル全土に点在していたシナゴグ(会堂)だった。宗教活動が盛んに行われた場所がもう一つあったが、それがエルサレムに唯一存在した神殿であった。しかし、当時行われていた神殿における礼拝は、愛とめぐみの神をほめたたえるというものではなかった。
祭司たちは一日中ひたすらに犠牲となる動物を屠殺することに追われていた。ローマの総督ケネティウスは、皇帝ネロに報告するために、過越の祭りに殺される子羊の数を調査したが、その数は二十五万六千五百頭であった。犠牲となる動物の屠殺は、神殿を囲む内庭で行われたのだが、礼拝者たちは血だらけの巨大な屠殺場を見、蔓延した血のにおいをかいだ。その光景は真の礼拝とはあまりにもかけ離れていた。そこでは、礼拝が目的とする神の霊に触れることができなかった。
このような宗教的環境の中で、イエスが提供したいやしと赦しの福音が大きな興奮をもたらしたことはよくわかる。イエスは、人々が最も必要としていた心とからだのいやし―それが救いと呼ばれたのだが―を与えたのだ。イエスが救い主と呼ばれたのは、彼に圧倒的ないやしの力が現れたからなのだ。 (次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。