ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」(1サムエル18:18)
これは米国で聞いた話ですが、ある青年が田舎の小さな村から、生まれて初めて大都会に出ようとしていました。その青年の母親は、息子が都会に行って誘惑に負けないか、悪いグループに誘われて間違った道に進むようなことはないかなどと案じていました。そして「自分が何者か忘れないようにしなさい」とアドバイスしたのです。
母親は息子に「あなたの先祖はこの村で開拓しました。あなたの祖父母も頑張って家族を支えました。私もあなたの父親も、あなたが生まれたときから愛情を注いで、あなたを大切に育ててきました。そのことだけは忘れないでね」と言って送り出したそうです。
新約聖書をプレゼントしてもらった人が、マタイによる福音書から読み始めたら、系図が出てきて面食らったという話はよく耳にします。世間一般の人たちから見ますと一見退屈とも思えるような系図が、なぜ最初にあるのか不思議です。しかし、ユダヤ人にとってはとても重要なことなのです。
ユダヤ人はほとんどの人が自分の系図をそらんじていたといわれます。また、ダビデの子孫であるということは王になる資格があるということで、誇りに思っていたといわれます。ダビデの血統であるということは救い主の条件の一つと思われていましたので、キリストの生涯を語る上でまず系図を載せるということは必須だったのです。
ユダヤ人は戦場で戦うときに、まず自分の系図を語っていたといわれます。これは同じ家系の者同士が争うのを避けようとしていたからだといわれています。日本でもポルトガルから鉄砲がもたらされるまでは、お互い名乗り合っていました。「われこそは〇〇の家臣、〇〇である」と名乗ってから戦いに挑んでいました。戦うときに強過ぎる人はなるべく避けて、犠牲者を減らすための方策だったという人もいますが、ユダヤの戦士の影響から名前を名乗っていたという意見もあり、大変興味深いです。
ユダヤの地からはるか離れた東の果ての国を目指すのは、決して容易なことではありませんでした。天候の急変、自然の災害なども大変だったと思いますが、何よりも困難を極めたのは、山賊や盗賊の襲来だったのではないでしょうか。家族を守るために家長は武術を身に付けなければなりませんでした。「サムライ」という言葉は、ヘブル語の「守る者」という意味からきているという説もあります。
シナイ半島で生活しているベドウィンは、今日でも家長が家族を守っていますが、中東最強の戦士といわれます。私はベドウィンの中に、古代ユダヤ人の勇猛さの名残を見ることができるのではないかと思っています。
日本の縄文時代は1万年続き、争いのない平和な時代だったといわれますので、武術が導入されるきっかけはユダヤ系渡来人ということになり、大変興味深いのではないでしょうか。そうすると、日本神話の中に登場するヤマトタケルノミコトもスサノオノミコトもユダヤ系ということになります。これは私の妄想ではなく、国史を研究している専門家の意見です。
日本を代表する信仰者である内村鑑三は「私は2つのJを愛する」といっています。これはジーザスとジャパンという意味ですが、「キリスト教徒であるが、誰よりも自分の国を愛している」というように受け止めていいのではないかと思います。自分の思想信条にかかわらず、歴史あるこの国に生まれたことを誇りに思っていくことは大切なことです。
一部の政治家や会社経営者の中には、自分の利得のことばかりを考え、国民を裏切って外国勢力の利権のために動く人もいます。また、GHQ主導の教育において戦前の歴史を否定する傾向があり、自分の国の歴史に価値を認めることができず、国家観とか国を愛する気持ちを失っている人も少なくありません。しかし、私たちは歴史の流れの中で生まれ、育ってきました。歴史を見つめ、過去の先駆者の偉業を学ぶときに、未来の道筋も示されてくるのではないでしょうか。
木を伐採したら、必ず植林する、自分たちが食べる木の実は自分たちの住まいの近くに植えるというSDGsの精神の下に生きていたのが縄文人でした。また縄文人は、はるかかなたの地から日本にやって来たユダヤ系渡来人、すなわちヤコブの子孫、イスラエルの子孫を仲間として受け入れてくれました。
私たちは、神に選ばれた者としてこの地に誕生しています。「島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」(イザヤ49:1)。私たちは、たまたま偶然ここに存在するのではなく、散らされたヤコブの子孫、イスラエルの子孫を神のもとに集める使命があるとイザヤ書49章に示されています。
神に愛されている者として、自分自身と自分の生き方を大切にし、周りの人々を思いやり、助けていかなければならないのです。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)
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