中学生の時、授業で「本立て」を作りました。左右の板に描く絵に思い悩みました。ある人は好きな花を、ある人は動物を、家、風景、・・・ある友達は彫刻刀で彫ったりしていました。皆、心にあるものを思い思いに描きました。組み立てているときは皆同じでしたが、できあがったときには一目で自分の物とすぐ分かるようになったことを思い出します。
ソロモン王が神殿を建てたとき、内外の職人が集められました。石を切り出し、組み立て、レバノン杉やもみの板で覆い、さらに金で覆いました。金1グラムは米粒の大きさといわれます。糸のように伸ばすと太さによりますが、2〜4キロの長さになるそうです。金箔ではどうでしょうか。「神殿内部の杉の板には、瓢箪(ひょうたん)模様と花模様が浮き彫りにされていて、すべては杉の板で、石は見えなかった」(1列王記6:18)。ソロモンは、彼の父ダビデから言われていた通りにしました。
「ダビデはその子ソロモンに、玄関広間、神殿、宝物室、屋上の間、内部屋、贖(あがな)いの間などの設計図を授けた。設計図は、すべて御霊によって彼に示された」(1歴代誌28:11、12)。主なる神は思いのままにダビデを選び、その子ソロモンをも選び、建て上げる環境まで用意されました。「見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。彼がわたしの名のために家を建てる」(同22:9、10)。ソロモンは平安の意です。
一人一人皆違います。母の胎内で組み立てられました。このことは、あなたにしかできないことがあるということを教えています。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)といつも語りかけてくださいます。そして言われます。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)
ソロモンは内装やその他のことに取りかかりました。神殿の四方のすべての壁には「ケルビムとなつめ椰子の木と花模様」の浮き彫りを彫りました。内殿の入り口の2つのオリーブ材の扉に「ケルビムとなつめ椰子の木と花模様」の浮き彫りを彫り、金で覆いました。本殿の入り口のもみの木の扉にも「ケルビムとなつめ椰子の木と花模様」を彫り付け、その彫り物の上にぴったりと金を張り付けました。このように描くべきものをも細かく指示されていたのです。(1列王記6:29〜35)
祭司の身をきよめるための「海」という器の縁は、ゆりの花の形をしていました。これは4万6千リットルの大きさでした。その縁の下に沿って約44センチ(1キュピト)に10個の割合で瓢箪模様を2段、取り巻くようにしました。(同7:24〜26)
罪の赦(ゆる)しのために全焼のささげものをしました。そのささげものを洗うための「洗盤」の口に、「花模様」の細工が施され、また洗盤を支える4つの支えの表面と鏡板にも「ケルビムと雄獅子となつめ椰子の木と花模様」を刻みました。洗盤の大きさは920リットルです。(同7:31〜38)
神殿の2つの部屋、聖所と至聖所とを仕切る垂れ幕は青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸で作られ、その上にケルビムの模様が縫い付けられました。「ケルビム」「花模様」「なつめ椰子の木」「瓢箪模様」「ゆりの花」「ざくろ」は、神が指示された飾りです。そこに載せられた神の思いは何でしょうか。
ケルビムは天的存在の象徴です。エゼキエル書には「人間と若い獅子」の2つの顔を持つもの(エゼキエル41:18)、「ケルブ、人間、獅子、鷲」の4つの顔を持つもの(同10:14)と記されています。ヨハネの黙示録には、天で神を賛美する生き物として出ています。聖書に最初に登場するのは、創世記3:24です。いのちの木を守るためでした。神は罪に汚されたこの世において、人がご自身と対面できる所を、ただ1カ所設けられました。それは、神殿の奥のあかしの箱の上の「宥(なだ)めのふた(贖いのふた、ともいう)」でした(出エジプト25:22)。
このふたの両端に、ふたの一部として金のケルビムを作りました。ケルビムは、神の臨在を守るものです。建設中の神殿の壁や扉に、数多くケルビムが描かれました。祭司たちが四六時中常に、主を覚えるための配慮です。ダビデ王が「私はいつも、主を前にしています」(詩編16:8)と告白しているのと同じです。そこで聖なる恐れと慈しみ、平安を経験するのです。ケルビムは複数形、単数形はケルブです。「神殿の四方のすべての壁に・・・ケルビムとなつめ椰子の木と花模様の浮き彫りを彫った」(1列王記6:29)。ケルビムの像、彫り物は神の臨在の象徴です。
花模様もケルビムと共に描かれました。神は全ての物を創造し、宣言されました。「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)。主イエスは言われました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした」(マタイ6:29)
花模様、花飾りと訳されたこの言葉は、つぼみが内に秘めている力と美しさ、咲いた時の輝き、その総力を意味していました。その過程のすべてが花としての栄光です。綿の花は1日でしぼみます。ミルトスは2日目には花弁が落ち出します。栄光の頂点が開花です。英訳ではオープン・フラワーとなっています。花模様は4回だけ、1列王記6:18、29、32、35の神殿の装飾だけに出てきます。
このたび、ざくろを間近に見てみました。朱色の硬いつぼみが開くと、ほとんど同時に内からの柔らかい同じ色の花弁に置き換わりました。つぼみががくの閉じた姿であったことに気が付きました。実を結ばないで落ちてしまう花も多くあるにもかかわらず、それをも神は心込めて咲かせます。花模様は、愛と優しさに包まれた深い創造の神の知恵を象徴します。「主よ、あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました」(詩篇104:24)
なつめ椰子は旧約聖書に35回出てきます。そのうち17回が、神殿に【描かれたなつめ椰子の木】で、「ティモーラー」といいます。【実際に生えているなつめ椰子の木】は「タマル」または「トメル」と言い、堂々とした均整の取れた姿は感動を与えます。1株に10〜12房、1房に約千個の実を成らします。じつに栄光の姿です。根が地中深く張っています。
ギリシャ語でフェニックス(不死鳥)といいます。寿命が長く、焼けても再び生長点が動き、芽を出すことがあって不死鳥といわれますが、伝説の鳥にすぎません。しかし、聖書の神は生ける神、いのちを創造された神です。ティモーラーは【ここにまことの不死鳥がいる】という世に対する聖書の神からのメッセージなのです。事実イエスは十字架で死に、3日目によみがえられたまことの神です。永遠のいのちのお方です。ティモーラーはイエスを象徴しています。イエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。なつめ椰子の木は勝利、平和、神聖、永遠のいのちの象徴です。
瓢箪模様。瓢箪は朝に咲く朝顔に対して、夕方に咲くところからユウガオ(夕顔)といいます。瓜の仲間です。多くは黄色の花ですが、これは白色で花弁がビロードのような感触を与えます。果実は長い円筒状のもの、ずんぐりしたもの、西洋梨の形、ドアのノブなど大小さまざまな形をしています。果実の中ほどでくびれ、そこだけ細くなったものを瓢箪といいます。果肉の苦いものはククルビタシンという成分によります。食べられません。苦くない物が食用とされ、干瓢(かんぴょう)といいます。苦味の遺伝子は優性です。
さて、瓢箪は聖書に3回出てきます。ペカーイームとヘブル語で言います。これの女性形はパックオートと言い、2列王記4:39に1回出てくるだけです。そこでは、ぶどうや瓜を指すゲフェンという言葉での説明があり、瓜の意味で使われています。パックオートはスイカの仲間であるコロシント瓜と理解されています。
それでペカーイームも瓜の仲間と見ることができます。ペカーイームには「割れる」という意味があります。瓢箪は白日の下で乾燥すると果肉が委縮し、種だけになり、マラカスのようにカラカラ音を立てるようになります。湿度の低い乾燥地では、果実は腐ることなく、果皮は非常に硬くなります。しかしもろく、やや強めに棒で叩くと簡単に割れます。
瓢箪はアフリカの原産です。日本にも縄文時代早期に伝わっていたといわれるように、早くから全世界にもたらされました。その多くが水を入れる容器として利用されました。カナンの地の祝福が初めの雨と終わりの雨をもたらせ、夏場の露にもあることを覚えます。
瓢箪模様は「海」の周りを取り巻くように鋳込んでありました。瓢箪は2段になっていました(1列王記7:24)。「海」は祭司の身を清めるために用いられます。瓢箪模様は雨、露をもたらす神の祝福、恵みの象徴です。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:38)。この生ける水は聖霊を表しています。
ざくろ。本殿の玄関広間の前には2本の柱が立てられました。胴回り約5・3メートル、高さほぼ10・2メートルです。その上部に据えられている柱頭には、ゆりの花の細工があり、それを覆うように200個のざくろが2段にして取り付けられました(1列王記7:20)。全部で400個あり、豊かな神の恵みを表しています。
ざくろの種子は純白です。種の周りのゼリー部分が種皮で食べるところです。ピンクです。光が多く当たり、よく熟すと濃くなり、甘味も増します。種子は多く、今まで最多で1果実762粒を数えました。日本では、果実が熟すとほとんどが割れ、赤い種子が顔をのぞかせます。神からの霊的賜物、祝福です。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ6:22、23)。ざくろは主の繁栄と祝福を表し、それをもたらす御霊の満たしを象徴します。
現在、旧約の神殿や祭儀はありません。それらはキリストの新しい契約を指し示しています。そこに施された飾りは、すべてキリストの十字架と復活の恵みを表しています。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル9:22)。「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました」(ヘブル9:12)
ですから今、私たちは、私たちのためにキリストがなしてくださった十字架を信じる信仰によって罪赦され、義と認められます。「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3)。「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです」(ヘブル13:15、16)
※ゆりの花はまたの機会に取り上げます。
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