本紙11月14日付記事に、「JEA、JKFを訪問 宣教師派遣、協力などを要請」と題し、韓国福音同盟主催の会合における日韓教会の協力関係構築に関する話し合いについての報道があった。日本宣教について韓国教会に大幅な協力を求めるというものだが私はこの内容に対して大きな異議がある。そこで、私の考えを一言申し述べたい。
本当に必要なのは日本人の自立
今回の協力要請の動機を、訪韓団は、「プロテスタント宣教150周年を前にした日本教会の画期的変化のため」としている。確かに日本の教会が画期的に変化することは必要である。しかし、日本にとって本質的にもっとも必要な変化とは、本当の意味で日本人が自立することであり、外国に頼んでどうこうという問題ではない。
クリスチャンとして日本社会の中で生き、伝道をしていれば分かると思うが、日本でキリスト教がこれほどまでに広まらない最大の理由は、日本人が他人、周囲を気にしすぎ、「内的真実にしたがって生きる」ということができないところにある。つまり、日本人は本当の意味で個人として自立していないということだ。
一般的に日本で「自立」と言うと、経済的な意味か、あるいは他の人たちと同じことができるようになる、いわゆる「一人前」との意味合いが強く、それ以上に、個人な良心に基づいて仮に周囲と不調和が生じても真実の自己であり続けると言うニュアンスはあまり含まれない。むしろそのような考えは子供っぽいもので、大人になるということはそれを捨てることと考える傾向がある。全体主義的傾向をいまだに引きずっているということだ。そのような文化が、日本人の、創造性の欠如、リーダー不在、画一性、あいまいさ、顔の見えなさ、そして、伝道の不成功の大きな原因になっている。
そしてさらにその心理的な要因として、やるべき正しいことに気づいても、リスクを恐れ、自ら踏み出せない日本人の臆病さというものがある。内心では気づいていても、非難されること、責任を負う事、孤独になることを恐れ、個人として率先して立ち上がることができない。他人頼み、様子見、勝ち馬に乗りたいのである。
日本人は主体性を身に付けきれていない
戦後日本は民主国家になり自由と人権を手に入れた。しかし、本当に内心の自由、良心の自由にしたがって行動できる民族になっているかというとそうではない。この民主主義が自ら得たものでなく、与えられたものだからである。民主主義の本質は内的自由に基づく国民の主体的社会創造だが、日本の民主主義は、「お上が与えてくれた枠組」から脱していないので、「お仕着せの枠組みを破り、新しい枠組みまでをも自分たち自身の手で創造してゆく」という民主主義の真のダイナミズムを体得していない。本質的にはいまだ「借り物」のままでしかないのだ。いわば、「仏造って魂入れず」「画竜点睛を欠く」というのが、日本の民主主義の現状だ。
例えば、最近ある調査で、男性会社員の過半数が育児休業をとりたいと思っているという結果が出た。しかし実際には男性で育児休業を取得した人の割合は1%にも満たない。その理由は、いわく、「前例がない」「会社にその制度がない」「雰囲気的にとりずらい」というものだそうだ。しかし、そもそも育児休業は法律に定められた権利なので、本来なら前例があろうが無かろうがとることができるし、会社に制度がなくても、制度を作ることを含めて請求できるものである。
このようなことは多くの人は知識としては知っている。しかし現実に実行するとなると皆すくんでしまって自分から行動することができない。誰も「いいだしっぺ」になれないのだ。だから、みんな分かっていて、みんなそうしたいと思っていて、結果はすぐ目の前にあるようなことでも、日本はそのちょっとした変化を起こすのが異常に遅いのだ。
日本宣教の遅れの原因
日本宣教の遅れの原因も結局はここにある。そしてこの状態から脱するにはこの欠点を克服するしかなく、自ら立ち上がれないという欠点を克服するには自ら勇気を出して立ち上がるということしかないのだ。外国に教えてもらうことではない。イエスによって癒された寝たきりの人は、自分の足に力を入れて立ち上がったから癒された。それと同じである。答えはすでに日本人自身の中にある。神が日本人だけには自立する資格を与えていないという訳ではない。ただ、それに目を向け、実行しないだけだ。
そもそも、韓国人と日本人では国民性が違うので、日本人に韓国式で伝道をしても韓国人と同じ反応は返ってこない。日本人に対しては、過度に熱心な伝道は逆効果になる。そして、期待したのと異なった反応が返ってきたとき、教えてもらったことをやるという姿勢でいる限りはさまざまに変化する状況に適切に対応できるようにならない。自分の内のオリジナルなものに信頼を置いていないので、いちいち韓国人に聞きに行かなければならないからだ。しかし、結局は思わぬ反応に戸惑ってしまうか、不適切な対応を繰り返すことになるだけだろう。なぜなら、日本宣教の真の召しと賜物はほかならぬ日本人自身にあるのだから。
もしこの要請が奏功した場合にもさらに大きな問題が生じる
また、もし万一、私の見立てが間違っており、韓国に大幅な援助を求めるというこの方針が功を奏し、日本宣教に一時的な進展が見られたとしても、それはそれでまた別の大きな問題が発生する。
今の日本では、キリスト教会が何を考え、発言しようとも、関心をもつ人はほとんどいない。社会的影響もほとんどない。しかし、宣教が成功し教勢が著しく増大するようなことがあればそうはいかず、世間やマスコミが必ず注目する。そのときに、その宣教を主導しているのが韓国人で、さらにそれが日本の教会が立てた計画に基づくものであるとわかったら、まず間違いなく反発が起こるだろう。
日本というのがこれほどまでに福音化しにくい国である以上、日本人への宣教は、一宗教の伝達のみによってなされるというより、日本人の国民性といえるメンタリティーにまでコミットして行くことと合わせて行われて行くことになるのは必然である。それは、大きくいえば、新しい国民性の創造というところにまで及ぶ。これは日本人の尊厳に関わる事柄であり、むやみに外国が手を触れるべきものではない。それをもし一宗教団体の独断で特定の国の人や団体に委ねてしまえば明らかに行き過ぎとみなされ反発を呼ぶだろう。また、恐らくは陰謀や密約の存在を疑う者も出てくる。いずれにしろ、そのときには逆に日本宣教が大きなダメージを受け宣教は後退することになる。それでもなおこれを外国に依頼しようとするなら、先ず国民の合意か、明らかに神の指示であるという確証を示すべきだが、どちらもないのは明白である。
尊厳とナショナリズム
人や国がそのアイデンティティーに関わる尊厳を守ることは、偏狭な行為ではない。むしろ、自らの尊厳を能動的にも受動的にも守ることができない国や人は真の尊敬を受けることができない。偏狭なナショナリズムとは、正常な自尊心を越えた感情的、盲目的な愛国心を指す。正しい自立、自尊の精神と混同すべきではないし、「謙遜」と「尊厳を軽視すること」も混同してはならない。神に対しては自己の尊厳を主張できないが、人に対しては、お互いを対等の尊厳を持つものとして尊重しあうのが真の謙遜だ。尊厳のない謙遜は謙遜ではなく卑屈である。
日本人らしさで世界に貢献する「日本の教会」を確立するべき
アメリカの教会は独特の短所を持ち合わせながらも、その短所と裏表の関係にある非常にアメリカ的な特長を持って自立し、それにより世界に貢献している。韓国の教会も、世界中のその他の自立した教会も同様である。日本のなるべき姿もまた当然それと同じである。もし日本にだけはそのようになる資格を与えられていないというのならば、その根拠を聖書的・キリスト教的に説明する必要がある。しかし、真実はそうではない。日本人は自ら立とうとしていないだけである。自ら立つというのは、他人が自分のことをどう思うのかを気にしないということでもある。
今回の訪韓で日本側からは「日本の教会と韓国の教会が一体となって一つの日本の教会を作る」べきだという主張があったが、それは「日本と韓国が一体となって一つの日本を作る」べきであると主張していることと同じになる。地域教会というのは、能動的受動的手段を用いて地域と一体化し、教会と地域の差異をなくすことが本質的目的であるからである。もし本当にこの理念が正しいと思っているなら、一宗教団体間レベルの話にせず、公にこの理念を主張するべきである。
一つ間違えてはならないことは、韓国の宣教が成功したのは、韓国人や韓国人のやり方が良かったからではなく、韓国人の信仰がよかったからである。そして信仰というものは、要は、「勇気をもって信じ従う」という決断を個々人がするかしないかの問題であり、教えてもらえばどうにかなるという性質のものではない。教えてもらわなければならないほどのことは日本はもう十分知っている。
日本は今、宣教のチャンス
日本は今、時が満ち、宣教の一大チャンスを迎えようとしている。しかし、もしこの貴重な時期に方向を間違えれば、日本の教会は重大な失敗を犯し、神から与えられたまたとない宣教のチャンスを逃してしまうことになる。
この20年ほどの間で、日本は、さまざまな時代の変化により、それまで当たり前だった多くのことが通用しなくなっていった。新しい時代に対応するために、抗し得ない流れとして経済を初めとした諸分野で、グローバル化を受け入れた。しかし、この新自由主義的世界観は、弱肉強食の肯定により欲望と利己主義の際限ない肥大化を招いて早々と破綻し、私たちが新しい時代を生きる拠り所とならないことが明らかになった。
その中で人々は今、この、変化する新しい世界に対処して生きるための確かな指針、考え方の核となるものを、探し、求めている。そして、その求められている新しい指針の姿とは、1)世界に通用し、2)日本人としてのアイデンティティーを満たし、3)新興勢力が勃興する中で、日本に新しい息吹と力を与えてくれるものだ。
この三つの条件を短期間に満たしうる位置にあるのが日本のキリスト教であり、そしてまた同時に、これこそがわれわれが進むべき姿そのものなのである。このことを日本の福音派の指導者らが認識しているのかどうか、私は疑問である。
今回の訪韓ではまた、「現代社会に変革と癒しと解決を与えられる影響力のある福音」という題目が出された。題目としては確かに正しい。しかし、この件に限らずそうなのだが、題目の先の具体的な内容に関して、今の指導者の中で実際に導ける人はいない。召しがないからである。なぜだろうか。
年功序列が宣教を妨げている
この答えもまた、日本的な問題である。「年功序列」だ。社会ではかなり崩れてきているが、教会では、従順の教えとクリスチャンのやさしさも相まって、生きながらえている。特に長老格の牧師ともなれば強く意見したりその意に反したりするようなことをやる人はほとんどいない。彼らが能力や時代への適合性に対する冷徹な評価に基づいて引退、降格を求められたという話は聞いた事がない。
老人たちはその上に胡坐をかき、自分がそれに真に適格であるかどうかには関わりなく、居心地の良いその立場に居座れる限り居座り続けようとする。しかし、悪いのは年配者ばかりではない。下の世代のものは、みなや立場が上の人と違うことをいうことへの恐れと、長上者に対する遠慮と、「おとなしくしていればいずれ自分がその立場に立てる」という、臆病と保身と打算で、異なる考えがあっても、内心の思いを包み隠してしまう。だから、神はいつでも召して導き、祈りに答えようとしてくれているのにそれが表に出てこないのだ。神が何もしていないわけではない。
私の今までのクリスチャン人生の中で、数多くの説教や講義を聴いてきたが、私の知る限り、日本の、少なくとも福音派の、いわゆる「大御所」クラスの牧師で、今の「時代」を指導できる人はいないと言わざるを得ない。もちろん、神学や、時代によって価値が変わることがない普遍的宗教性の面では必ずしもそうではないかもしれないが、時代に即してふさわしい姿に教会を導く能力は、それとはまた別のものであり、これらの大御所の中にはその能力のある人はいないと言える。
老人は欲を捨て、若い者は積極的な勇気を持て
老人たちは、「自分の立場」に固執することをやめ、次の世代に移行すべきである。保持する資源を譲り渡し、自分たちは補助的な役割に退くべきだ。自分たちのこれまでの働きが、ただ神の憐れみによる神の働きで、培ってきたものが自分のものでなく神のものであることが分かるならばできるはずだ。
また、召しと賜物のある若い人たちは、神の聖霊よりも単なる日本の人間的な文化でしかない年功序列などの秩序を重視することをやめ、召しにまっすぐに立って発言・行動するべきである。そうするにあたり、周囲の悪意というのは確かに多少あるかもしれないが、恐れるほど強力ではない。神から目をそらさず歩んでいけばおのずと道は開けてゆく。神に従っているときには、むしろ敵対する人の方に大きな恐れが起こる事を忘れてはならない。
ともかく、日本の教会、社会の改革は、日本人の中から、それも老人以外の中から出てくるものである。老人たちは、既得権益としての地位や立場を握り締めて放さないのではなく、後進の自発的な活動を奨励し、自らは後に退き、培ったものを自分のものと思わず、惜しまず与えてゆくべきである。
「育成」をするという考えも、自分の影響を保ちたいという思いの現れであり無用だ。召しのない人間が教えても不適切な刷り込みになり、かえって可能性を抑えるものになる。本質的に育成は神がするものである。歴史はそのようにして作られてきた。
新時代日本キリスト教会
牧師 谷則和