<世界はなぜ平和であるべきなのか>
世界はなぜ平和であるべきなのでしょうか。それは平和が武力ではなく、神の≪救済意志≫を根拠としているからです。平和を実現する神は全世界を救済するという確固たる意志を堅持しているお方です(ヨハネ3:16)。軍事力の行使によって平和を作り出す試みは、破壊でもって創造を、暴力でもって秩序を、無法でもって安全を造ろうとする矛盾の道です。手段は目的によって規定されねばならないのです。具体的には、平和構築という目的を達成するには、平和的な手段によらねばならないということです。したがって、武装した自衛隊を「人道支援」という「目的」でイラクに派兵した日本政府の政策は矛盾の道であって、その矛盾は派兵の真の目的が別の政治目的にあることを暗示しているのです。
救済とは、人間の生きる意味を否定するような破壊的な力を克服することによって、あるべき存在を成就する神の恩恵による働きです。キリストはこの世界から私たちを救うのではなく、この世界のただ中で私たちを救う主です。したがって、神の国の実現に向かう≪救済の歴史≫は一般の歴史を超えて働くと同時に、歴史のただ中で進行します。ここに救済が歴史の意味であるという真理が明らかとなるのです。世界と歴史が無意味の虚無に転落することを防いでいるのは、この救済なのです。
歴史の意味が救済であるならば、すべての歴史は贖罪が待望され受容される≪救済の歴史≫に関係しなければなりません。なぜなら、神の国の内容である正義と平和は、それに対する人間の反逆に起因するキリストの苦難によって贖われているからです。各個教会が神の国の宣教の課題に忠実である時も不忠実であるときも、教会は≪救済の歴史≫の「担い手」なのです。なぜなら、教会とは永遠のいのちとその究極的意味に与(あずか)って生きている人々の共同体であり、その共同体は歴史的生の全体に力と価値とを与える神の民の群れでもあるからです。キリスト教宣教の意味は、この真理に基づいているのです。
教会は、すべての宗教と文化の中から意識的にも無意識的にも神の救済の意志に向いて生きている人々を呼び集め、それらの人々を平和の実現に向けて旅する共同体へと形作り、そうすることによって、神の国を旅する統一された歴史意識を人類に与える基本的な使命を預かっているのです。