・・・もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。・・・もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。・・・キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一15章12節〜22節)
イエスが死の力を打ち破ってよみがえって下さったので、イエスを信じる私たちは、たとえ死ぬことになっても永遠の命が約束されて、神の前に永遠に歩むことができるから感謝です。
復活の信仰にまで至っていると、人生にどれほど重大なことが起ころうと、私たちは根本的な部分で平安を失うことはないのです。
イエスのよみがえりがあればこそ、私たちは人生に対しても最後の最後に至るまで、夢、希望、光、輝き、感動を見失うことなく歩むことができるのです。
そこで、パウロは語ります。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(15:17)
もし、復活がなければどうなるかをまとめておきたいと思います。もし復活がなければ―
1.イエス・キリストの生涯が未完成で終わった
教会の中での1番のお祝いといえば、クリスチャン以外の人たちも大騒ぎするクリスマスです。それは、神が人となって私たちの住む世界に救い主としてやって来て下さった、素晴らしい出来事だから2千年に亘ってクリスチャンたちが祝い続けているのです。
しかし、物語は華々しく脚光を浴びてスタートしたのに、その救い主が、十字架にかかり、苦しみと悲しみと絶望の果てに死んで終わったとしたらどうでしょう。それでは単なる悲劇です。物語は完成しません。
イエスは私たちの罪と呪いの全てを背負って十字架で死に、死の力を打ち破ってよみがえられました。復活がなければ、イエス・キリストのご生涯が救い主としては完成しないのです。テレビドラマの水戸黄門が、最後に印籠を出したにも拘らず切り殺されてはお話にならないでしょう。尻すぼみな選挙の公約とは違うのです。イエスの物語は完成したからこそ、イエスは救い主なのです。私たちに救いをもたらすために来て下さったイエスは、それをちゃんと完成して下さいました。
2.キリスト信仰そのものが中途半端
どれほど真面目に愛をもって生きたとしても、最後は滅びの中で死に、闇の世界に落ち込むのだと言われて、人生に対する喜びや生き甲斐を感じることができますか?
良いと言われる宗教はいろいろありますが、キリスト信仰だけが、人間の不幸の根源である罪の問題を真正面から捉えています。私たちの心の中には処理しなければならない罪の問題が存在します。しかし残念なことに、その罪を自分の力ではどうしても処理することもできないのです。もしもそれを完全に処理しようとするなら、死んで自分の存在を帳消しにする以外に方法はありません。その罪の問題を真正面から見、完全な解決を与えているのはキリストの十字架と復活なのです。だからこそ信じるに値するのであり、私たちの存在をかけた信仰を、キリストに対して持つことができるのです。
3.私たちの人生そのものが未完成で終わる
この地上での命の長さやその内容は、必ずしも平等とは言えません。しかし、クリスチャンになると人生の捉え方そのものが変わります。皆必ず死にますが、天国に戻って永遠の命を神と共に、神をほめ讃えながら過ごすことができるからです。
イエス・キリストのよみがえりがあったから、私たちは天と地を結び付けた本当の信仰を持つことができるのです。ですから、この地上でどのような紆余曲折があろうと、私たちクリスチャンの人生は必ずハッピーエンドなのです。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。