朝のテレビ番組を見ると、どの民放チャンネルでも「今日の運勢」を占うコーナーをやっている。
占いの種類は星座だったり、血液型だったり、オリジナルのものなどいろいろだが、どれもその口調は、あたかもそれが確定的な真実であるかのように自信たっぷりで断定的である。しかも、それを怪しげな占い師が出てきて面白おかしくしゃべるのではなく、局のアナウンサーがアナウンス口調で話すので、まるで交通情報やお天気情報と同じくらいの信頼性があるように聞こえてしまう。
しかしこれは、放送局がもつべき公平性、中立性、正確性の観点から大きな問題がある。根拠の不確かなある特定の個人が主張する未来予測を、放送局の公式な報道のように伝えているからである。
クリスチャンであれば、少なくとも福音派のクリスチャンであるならば、このような状況に眉をひそめたくなる思いを抱く人は少なくないと思う。だが、ほとんどの日本人クリスチャンは、たとえこのような思いを持っても直接表明することなく、ただ心に思うだけで留めてしまう。
これは日本人クリスチャンというより、日本人の伝統的な国民性によるものだが、果たしてこのような姿勢は現代、あるいはこれからの時代を生きるクリスチャンとして、また日本人としてあるべき姿なのだろうか。
そもそも、現在私たちが享受している自由、平等、民主、人権といった重要な価値観は、過去においてクリスチャンが、当時の社会と戦い勝ち取ってきたものである。聖書や聖霊を通して神を学び、世の正・不正、善悪がよりはっきりと見えるようになった人たちが、あるときは積極的に、あるときはやむにやまれず行動して作られてきたのが現在のいわゆる「西側自由主義社会」である。
したがって、欧米を初めとするキリスト教国の人たちにとってはキリスト教は、現実逃避の弱い人たちが信じるものではない。しかし、日本のキリスト教は、明治時代の日本プロテスタント草創期こそ女子教育や労働者問題などにおいて社会に貢献したが、現在の日本キリスト教は、せいぜい「ビジネス社会で成功するコツ」のようなテーマがあるくらいだ。世の不正を正し、「社会に対して一人一人が積極的に発言、行動していこう」ということが講壇から語られることは私の知る限りほとんどない。
私自身、長い間社会の中で働いているが、今の日本社会は、ニコニコと親切に隣人を愛していれば人が注目し、キリストに興味を持ってくれるような牧歌的な時代ではない。根底には「いい人だ」という思いは持つかもしれないが、激しい実社会の中では、扱いやすいいいカモとして利用され、それ以上顧みられないことのほうが多い。
もちろんクリスチャンの基本的なあり方としてそのような態度は必要だが、むしろ今の時代は、心の中にあることをストレートに表現、主張する人、付和雷同的でない、周りの人や社会と異なる、独自性を強調する人のほうが「自分を持った人」として尊敬される。またそうしてこそ社会の中でその人の存在は重みを増す。このように、信仰者としても市民としても自立、独立し、恐れることなく一人一人の生きている場所で正しい事、思ったことを行える人となることが、グローバル化した今の時代、またこれからの時代において日本人、日本のクリスチャンに求められることだ。クリスチャンの存在が社会の中で光を放ってこそ、人々はその人の背景にあるキリスト教にも興味を持ち、話にも耳を傾ける。
もちろんすべての人がそのようなタイプにならなければならないというわけではないが、そのようなタイプの人がしっかりいてこそ受容的な人の良さも際立ってくる。
いずれにせよ、このことが日本のリバイバル、ひいては世界や世界のキリスト教会に貢献する「日本のキリスト教」の確立につながるはずである。
現在教会が持っている色々な習慣、伝統、思い描いているクリスチャン像などは、多くはただ前の人がやってきたからそうするものだろうという思い込みによるもので、現在もそうでなければならないという根拠があるわけではない。
日本の教会はこの辺で固定観念を捨て、「聖書のみ」「キリストのみ」のプロテスタントの基本に戻り、昔の人たちが作ってきた、もう古びているかもしれない様々な文化を見直し、自己満足から脱皮して、真に神と世の間に立つ教会になるべきである。
(開拓教会準備中・谷則和)