イスラエルでメシアニック運動を指導するヨセフ・シェラム氏が3日、都内で講演し、ユダヤ人の視点から、イエス・キリストの生涯とクリスチャンに与えられた神の祝福、日本のクリスチャンとユダヤとの関係について語った。
メシアニック運動とは、ユダヤ人は律法を守りつつイエス(イェシュア)を信じる召命がある、と主張する、ユダヤ人を中心とした活動。現在、イエスをメシヤと信じるユダヤ人は、全世界で数十万人、イスラエルでは約1万人いると言われている。
この運動には、キリスト教会が背負う悲しい過去が重く横たわっている。信徒の大半がユダヤ人であった新約聖書の書かれた時代を過ぎ、非ユダヤ人が信徒の大半となった4世紀頃には、ユダヤ人信徒が教会からほとんど姿を消していた。それにともない、形式的にも神学的にもユダヤ教の要素がキリスト教から徹底的に排除されていった。
その後、キリスト教徒とユダヤ人は宿敵となる。激しいユダヤ人迫害がヨーロッパを中心に何度も繰り返された。十字軍によるユダヤ人の虐殺は有名だが、史上最悪の人種差別政策ホロコーストの背景にも、ルターの反ユダヤ的な神学があったと言われている。一方で、ユダヤ人も反キリスト教的な神学を確立させ、キリスト教は信じないとの態度を固めた。
こうして、「ユダヤ人はイエスを信じない。イエスを信じたら、ユダヤ人ではなくなる」という認識が、いつしかキリスト教徒とユダヤ人双方の間で確立していった。
しかし、19世紀に入ると、ユダヤ人伝道を推進するキリスト教会の運動がイギリスなどで始まった。宣教師たちの働きによって、20世紀初頭までに、なんと数十万人という驚くべき数のユダヤ人がイエス・キリストを信じるようになった。だが、彼らはイエスを信じると同時にユダヤ人であることをやめてしまい、その子孫は自分たちの先祖がユダヤ人であったことすら知らないという状態に陥った。
メシアニック運動はそのような時代の中で、「ユダヤ人がイエス・キリストを信じたら、なぜユダヤ人をやめなければならないのか」という問いから始まった。
イエスを信じたユダヤ人が過越の祭を祝うと、伝統的キリスト教から激しい反発を受けた。それは、キリスト教がユダヤ人信徒に過越の祭の遵守を禁止し、違反者を残虐な方法で死刑にして来たという過去があったからである。
だが、現代のユダヤ人信徒が旧約聖書に「永遠の定め」として記録されている過越の祭を祝ったとき、祭の中に十字架に関する非常に深い霊的な意義があることを再発見した。それを知ったクリスチャンたちの間では、「我々は重大なものを見失っていたのではないか」という声が出てきている。この運動が、現代のキリスト教に投げかける「問い」は少なくない。
シェラム氏は講演で、西洋のキリスト教会がイエスの神性をあまりに強調しすぎるあまり、イエスの人間性についてのメッセージが弱まっていると指摘し、イエスは肉によればアブラハム、ダビデの子孫であり、8日目に割礼を受け(ルカ2:21)、主の律法に従って育てられたこと、ユダヤ人の王として死なれたことを強調。その上で、イエスの御名によってすべてのクリスチャンがユダヤ人に約束された神の祝福につながれたことを説いた。
また、「私たちが永遠の命を持つためになぜ人間を送らなければなかったのか」と問いかけた。ユダヤ人は、はじめがあって終わりがあるという直線的な歴史観を持つ。歴史の向かう最終の目的は、すべての者が神を創造者としてあがめることである。たが、その前に最後の審判が下される。人は終わりの日に神の御前に出て、例外なくその裁きを受けなければならない。
神の御前に立たされたとき、人は「全能者である神に、私の弱さもむさぼりの心もわからないでしょう。だから、あなたは私を裁けません」と言うことができるかもしれない。
しかし神は、人として、そのひとり子イエス・キリストをお遣わしになった。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。
神も、私たち人間と同じく苦しみ、さげすまれ、人々からのけ者にされ、侮辱された。神は、確かに人間をつかわされた。シェラム氏は、「イエスの中にあり共に私たちが十字架に死に、そして新たに生まれた。新しい自分を得た」「私たちは創造者を知っている」と証しした。
最後にシェラム氏は、リバイバルは「メシアであるイエスに連なることによって、イエスを伝えることによって」起こると強調し、日本の教会に対して「互いに教会同士が仕えあい、民族に仕え」、また「イスラエル(の救いのため)にも仕えていただきたい」と語った。