生駒聖書学院のモットーは「不可能は挑戦となる」である。神に信頼し祈るなら、不可能の壁は崩れ、必要も満たされることを繰り返し教えられてスタートした伝道牧会だった。
富雄に行く時、フルタイムの伝道牧会を望んだが、現実は厳しく、教会案内のパンフレットを印刷することもできなかった。駅前に立ち、イエス・キリストを信じるように呼びかけても、人々は振り向いてもくれない。家内は学院の愛児園に勤めていたが、ここも奉仕と同じ条件なので、その給料では食べるのにも事欠く状態だった。
教会の前の川に釣り糸を垂れ、小魚を釣って夕食のおかずにしたこともあった。しかし食べるのは好きだが釣るのは苦手だから、漁獲は少なかった。こんな惨めな気持ちになるくらいなら、いっそ断食したほうがよいと思った。そんな時、松田さんが投網でいっぱい小魚を取り、唐揚げと煮つけにしてくれた。最初は喜んで食べていたが、一週間ばかり同じ物を食べると、もう見る気もしなくなった。山菜を取ったり竹の子をもらったりして、餓死はしなかったが、死して餓死を待つより、働こうと決心した。
当時の風潮では、献身者が一般社会で働くことは罪であり、信仰のない証拠であった。信仰があれば旧約の預言者エリヤのように、カラスがパンと肉を運んでくれる。またイエスさまがなさった奇跡のように、五つのパンは五〇〇〇人分に増え、水はぶどう酒に変わる。だから大丈夫だと頭では理解していても、お腹は鳴るし、路傍伝道へ出ても、それでなくても話し下手なのに、大きな声も出ない。
祈って決断し、新聞の求人広告で「保証高収入」とあった募集先へ面接に出かけた。履歴書に牧師と書くのは恥ずかしいが、書かなければ偽りの罪になる。ともかく最初に正直に言おうと心に決め、「ダイレクト・サービス」と書かれた会社のドアをノックした。
温厚な紳士が対応してくれた。それが千田所長だった。「ああ、牧師さんですか。この仕事ならピッタリですよ。ぜひわが社で働いてください。給料も良いし、日曜は絶対仕事はありません。時間は十時から五時までです」と説明してくれたが、私のほうはだんだん不安になってきた。「給料はいくらぐらい出るのですか?」と恐る恐る聞くと、「もう取り放題です。いくらでも出ますよ」と言う。仕事の内容を聞くと、セールスとのこと。もう真っ青だ。人と話す、しかも物を売り込むとは、最も苦手とすることだ。表情の変化に気づいたのか、千田所長は慌てて、「いや、変なものじゃありません。本です。画報ですよ。わが社はこの分野では信用があります」と言い、何冊かの婦人画報や美しい写真集を並べた。私はそれまで本は読むだけのものだと思っていたが、子どもの目に触れてもよい、とてもきれいな本ばかりだった。「大丈夫です。すぐ慣れますから。ちゃんと指導もします。さっそく明日から来てください。採用です」と、簡単に採用された。
給料は売上次第、交通費は自己負担、ただし「直行・直帰」を牧師に限り認めるという寛大な採用条件だ。何よりも「直行・直帰」に心が動いた。学院で教え続けることもできる。伝道会の時は早く帰れる。それだけでここで働くことを決めた。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。