文字は殺し、御霊は生かす(2コリント3:6)
1.キリストを信じてから
私は求道時代から数十年、聖書を学んできました。そして最近になってようやく、聖書のみことばの本当の価値がわかりかけてきたような気がしています。それは、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63) ということを、少しづつ体験し始めたからです。
これまでは、聖書のみことばは、私にとって、生活の指針であり、倫理、道徳の規準でした。苦しい時の励ましであり、悲しい時の慰めでした。また、うれしい時の感謝と力でした。キリストを信じることによって、全く新しい世界に導き入れられ、その新鮮な思いをもって生活してくることができました。
初めのうちは、いろいろな困難にあいましたが、祈りがどんどんかなえられて、夢のような日々がつづきました。祈りと聖書のみことばによって、生活のあらゆる面において、目覚ましい前進が続きました。
ところがです。年数が経つにしたがって、だんだんと「何かが足りない」ということを、感じ始めたのです。良く聖書を学び、良く祈り、良くみことばを実行して、それなりの成果があがればあがるほど、次々に新しい大きな難問が与えられてきます。課題が大きくなり、難しくなればなるほど、必ずしもそれまでのようにトントン拍子では進みません。多くのアップダウンがあり、長期の努力と忍耐が必要となります。
そうすると、結果や成果を早く得ようとして、ついつい、人間的な思いでがんばってしまいます。それに伴って、魂の飢え渇きが大きくなってきたのです。また、おそらく過労からくると思われる慢性的疲労感からなかなか脱出できないでいました。
日本という非キリスト教社会にいるきわめて少数のクリスチャンにとって、このような飢え渇きと慢性疲労感は当然のことではないか、と思っていました。また、弁護士という闘争的な職業からも、やむを得ないことと思っていました。そして、このような状態にあっても、長く忍耐して努力していけば、徐々に力がついてきて、いつかは、恒常的に、あふれるいのちと、力を体験できるようになるだろう、と期待していました。
2.文字は人を殺す
あるとき、喫茶店で聖書を読んでいたときに、第二コリント3章6節の「文字は殺し、御霊は生かす」というみことばが心に深くふれました。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです」。
3章15節から18節には、次のように書かれています。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
私はこの聖句から重大なことに気づかされました。聖書のみことばを読んだり、聞いたりしても、その人の心におおいがかかっているので、みことばの真に意味することがわからない、ということです。心におおいがかかったままでは、みことばの文字を知的に理解して頭に入れても、心には入らない、ということです。それでは、神のみことばに対する全幅の信頼は湧き起こってこないのは、当然です。
キリストが十字架にかかる前に、ペテロは、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マタイ26:35)と言いました。 しかし、ペテロはこれを肉の思いで言ったので、実行できませんでした。
ペテロはキリストに出会ってすぐに弟子になって、3年間もの間、キリストと寝食を共にしました。その間、毎日キリストのみことばを聞き、数々のキリストの愛の奇蹟のみ業を見てきました。そして、キリストが神の御子であり、救い主であることを知っていたのです。
それにもかかわらず、いざキリストが十字架につけられ、自分に危害が及びそうになったら、3度もイエスを知らないと言って、逃げてしまいました。
ペテロはキリストのことばを頭では知っていたのです。しかし心の奥底(本心)では受け入れていなかったのではないでしょうか。その状態は、ペテロが復活のキリストに出会っても、続いていました。ペテロがキリストのことばを本当に(本心で)悟ったのは、ペンテコステの日に激しい聖霊のバプテスマを受けた日ではなかったか、と思います。
私も、ペテロと同じように、毎日聖書のみことばを読んでは祈り、数々のキリストの愛のみ業を見てきました。しかし、それは多くの場合、知性と感情の領域でのことにすぎなかった、ような気がします。
キリストのところへ行けば、良い話が聞ける、病気をいやしてもらえる、悪霊を追い出してもらえる、食物をもらえる、問題を解決してもらえる、と思って集まってきた群衆の一人にすぎなかった、ような気がするのです。キリストの恵みを受けにキリストのところへ行くのですが、恵みを受けるだけで、あらゆる恵みの与え主であるキリストご自身と、直接心から親しく交わることが少ないのです。
その結果、多くの恵みを受けていながら、「何かが足りない」という状態に陥るのです。その不足感を満たそうとして、「もっと恵みを、もっと恵みを」とせがむようになります。しかし、恵みは恵みにすぎません。一時的、相対的なものにすぎません。このようにして、単に恵みを受けるために聖書のみことばを学べば学ぶほど、霊的飢え渇きはもっとひどくなっていきます。
もちろん、神に恵みを求めることは良いことです。神はいつも私たちに、「求めなさい」(マタイ6:7、ヨハネ16:24、ヤコブ4:2) と言っています。神に願い求めて与えられるならば、私たちは喜びます。天の父はそのようにして、ご自分の子供たちが喜ぶのを見たいのです。しかし問題は、私たちが恵みだけを求めて、主ご自身との親しい交わりを求めるのを忘れがちになってしまう、ということです。そうすると、いくら恵みを得ても、霊的にはどんどん弱まって、死んでいくようになるのです。
恵まれたクリスチャンホームに育った青年が、若くしてキリストを信じ、友人たちに福音を伝え、教会では青年会の会長として熱心に奉仕をし、聖書のみことばを一生懸命に学びましたが、社会人になって会社の人間関係のことで悩んでいました。そしてある時から、「聖書をいくら読んでも、砂をかんでいるような気がします」と言い始めて、ついには自殺してしまったのです。
教会を離れて去っていく、多くのかつて熱心だったクリスチャンが、同じような問題を抱えているのではないかと思います。私たちの思いが、「恵み」や「奉仕」という外側の事柄にのみ熱中していくと、かえって「主ご自身」から離れてしまう、ということがあるのです。
3.御霊は生かす
それからしばらくして、ヨハネの福音書6章63節のみことばが示されました。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
私はこのみことばによって、「文字は殺し、御霊は生かす」というみことばの意味が、少しわかったような気がしました。「キリストのことばは、霊であり、いのちである」ということです。「神のいのちを与えるのは、霊であって、肉は何の役にも立たない」のです。
言い換えれば、もし私が、キリストのことば、すなわち聖書のみことばを、その文字から知的に理解して、これを肉の力でがんばって実現しようとしても無益だ、ということです。キリストのことばを頭で理解してこれを記憶することは、「思いの領域」すなわち「マインドの領域」の事柄です。「肉の領域」の事柄です。ですから、がんばって自分の力(思いの力)でこれを実現しようとするのです。その結果は、うまくいけば高慢になり、うまくいかなければ失望して、卑屈になってしまいます。このようにして、肉性がどんどん前面に出てきて、霊性がどんどん後退し、死んでいくことを体験するのです。
しかし、「みことば」は「霊」なのだ、「神のいのち」そのものなのだ、ということを心の底から悟るならば、これは本当にすばらしいことです。私たちは「みことば」を私たちの心の奥底に(すなわち霊の領域に)受け入れなければならないのです。そうすれば、「みことば」である「霊」は、自由に行動されます。「神のいのち」が、私たちの心の奥底から(霊の世界から)、自然にわき起こって、あふれ出てきます。キリストは、次のように言っています。
だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。(ヨハネ7:37〜38)
そうするともはや、私たちが、自分の思い、自分の力で、がんばる必要は全くなくなってしまいます。御霊ご自身が働いてくださり、神のいのちが、私たちの心の奥底から、自然に川のようにあふれ出てくるからです。「神のみことばご自身が、みことばを実現していく」(イザヤ55:11)という世界に入るのです。私たちはただ、みことばを信じて(心に受け入れて)、みことばのなさるままに生かされていく世界にいるのだ、ということがわかってきます。それがまさに、「御霊は生かす」ということです。
4.主に向く
それでは、みことばが、霊であり、いのちであることを体験していくためには、どうしたらよいのでしょうか。みことばを、頭だけでなく、心にも受け入れるには、どうしたらよいのでしょうか。その秘訣は、ただひとつです。それは、「私たちのすべての思いと熱情を、キリストに集中していく」ことです。
第二コリント3章16節には、「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」と書かれています。私たちのすべての思いと熱情をキリストに集中していくならば、人の知性や感情という肉によってかけられていた「心のおおい」が取り除かれて、みことばの内なる霊性、すなわち神のいのち、神のひかり、すなわちキリストご自身が、私たちの心の内に(霊の世界に)現れてくるのです。
主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。神のみことばが、おおいが取り除かれた心の内にどんどん入ってきて、そのいのちとひかりを自由に現してくるのです。そうすると、キリストご自身と自由に生き生きと交わることができるようになります。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。すなわち、御霊なる主の働きにゆだねていくときに、そうなるのです。決して、私たちの肉の働きによるのではありません。肉の働きはかえって、御霊の働きを妨げてしまいます。
「みことば」を知的理解の領域(マインドの領域)から、神のいのち、霊の領域(スピリットの領域)においていただくためには、ただ、「主に向かう」ことです。「常に主に向かいつづける」ことです。「一瞬一瞬を主に向かっていく」ことです。祈りをとおして、みことばをとおして、讃美をとおして、愛の実践をとおして、日々の生活のすべてをとおして、「キリストに向かっていく」ことです。
そうすれば、御霊なる主の働きによって、みことばの文字という外側の形、皮、殻によって表現され、おおわれている、内側の内容、実、中味であるキリストご自身とお会いし、親しく交わることができるのです。
5.キリストに根ざして生きる
ハリエット・ピーチャー・ストウという方の書いた小冊子「キリストに根ざして生きる法」の一部にこのことが簡潔に書かれていますので、これを引用します。
◇枝はどのようにして実を結ぶのであろうか。日光や空気を求めて絶えず努力することではない。花に美しさを加え、葉に緑を加えるためのいのちを盛んにする力を求めて、むなしい努力をすることでもない。それは、妨げられることのない結びつきによって、静かにぶどうの木につながっているだけある。花や実は生長の結果として自然に現れてくる。
それでは、クリスチャンはどのようにして実を結ぶべきであろうか。無償で与えられるものを得るために努力したり苦闘することによってであろうか。気をつけて考え、祈り、行動し、誘惑や危険について瞑想することによってであろうか。
そうではなく、すべての思いと熱情を、キリストに集中することによってである。自分自身のすべてを全くキリストに明け渡し、恵みを求めて常に主を見上げるのである。このような思いが確立されたクリスチャンは、母親の腕に抱かれた幼子のように静かに歩みつづける。
キリストは、その時その場に応じて彼らに、ひとつ一つの責任を思い起こさせ、ひとつ一つの失敗を正させ、直面する困難のすべてについて忠告を与え、必要なひとつ一つの業に向かわせてくださる。物質的な問題についても、霊的な問題についても、あすのことを思い煩わない。なぜなら、彼らは、キリストがきょうと同じくあすも手の届く所におられることを知っているからであり、時が主の愛になんらの障害も及ぼさないことを知っているからである。
彼らの希望と信頼とは、ただ彼らのために主がおできになること、主が喜んでしてくださることに依存している。キリストのために彼らがなしうること、または、喜んでするつもりの何事かに依存しているのではない。すべての誘惑と悲しみに備える守りは、幾度もくり返される主へのすなおな全き明け渡しなのである。
◇罪とは「的はずれ」という意味です。私たちのめざす方向が、神(イエス・キリスト)という的から少しでもはずれているならば、それは罪になります。ですから、私たちがただ一つだけなすべきことは、全身全霊をもって、キリストに向かいつづけることです。そうすれば、いつもキリストご自身にお会いして、その無限の愛と恵みを受けていくことができるのです。
6.キリストのからだの一部である
イエス・キリストが常に臨在され、内住されるお方であることを完全に知ることができた中国内陸の開拓宣教者ハドソン・テーラーは、妹宛の手紙でその歓喜を次のように語っています。
◇ぶどうの木と枝のことを考えるとき、祝福の聖霊はなんとすばらしい光を、私のたましいに注ぎ込まれたことでしょう。主から活力や満たしを取り出そうと願ったことが、どれほど大きな間違いであったかをよく考えさせられました。
私は、イエスが決して私を見捨てられないということだけでなく、私が主のからだの一部分であり、主の骨の一部分であることを知ったのです。ぶどうは根だけではありません。それは、根も、幹も、枝も、小枝も、葉も、花も、実も、すべてなのです。
そして、イエスはそれだけではありません。主は、土であり、日光であり、空気であり、雨であり、さらに私たちが夢に見たこともなく、願ったこともなく、必要とも感じないようなさまざまのものでもあるのです。
この真理を知ったことは、本当に喜ばしいことでした。あなたもまた、このような理解ができるように、光をいただき、キリストのうちに自由を与えられている富を知り、楽しむことができるようにと祈ります。
◇イエス・キリストを心の底から信じることによって、私たちはすでにキリストのものとされ、キリストのからだの一部とされているのです。この霊的真理をひと時も忘れずに、絶えずキリストに向かいつづけていくならば、みことばの文字の内におられる霊なるキリストご自身との親しい交わりに入ることができます。そのようにして、キリストの言語を絶するすばらしさを、もっともっと体験しつづけていくことができます。
私たちが、キリストのぶどうの木にその枝としてしっかり結ばれていさえすれば、キリストご自身が私たちをとおして働かれて、豊かな実を結んでくださるのです。(ヨハネ15:5)
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。(ローマ11:36)
◇