現在、私たちは平和の中でクリスマスを祝っています。しかし、この世界や私たちの身の周りには、多くの悩みと不安をかかえて苦しみ、絶望的になっている人もあることを忘れてはなりません。そう言う私たち自身も決して安定した明るい状況の中で生きているのではなく、その現実は、極めて厳しいものがあることを否定できません。
世界の至るところで、民族紛争が繰り広げられており、クリスマスの国イスラエルにあっても、いつ果てるとも知れない紛争が続いています。資源の枯渇、気候の異変、飢えに苦しむ人々は八億に及ぶと言われています。社会の秩序は崩れ、家庭の団欒は失われ、子どもたちは心のよりどころを失い、校内暴力、いじめ、殺傷事件は日常茶飯事となっています。
まことに「不安の中のクリスマス」ではありませんか。
私たちの信仰も弱く、教会もまた、この世に向かって乏しさを認めざるを得ないのです。そんな中でのクリスマスなのです。
しかし、このような中にあってのクリスマスに、千里の旅を遠しとせず、厳しい試練を乗り越えて、東の国から、救い主を訪ね求めて来た博士たちの話は、私たちにも救い主にお会いする秘訣を教えてくれ、私たちの人生を平和と喜びに満たしてくれるものがあります。
この博士たちは、ペルシャの方から来たらしいのです。険しい山や砂漠を越えての長旅であったのです。彼らは、救い主はイスラエルから出る、と聞いておりましたので、そのお膝元のエルサレムこそ、その方にお会いする場であるに違いないと目論見ました。彼らがエルサレムに辿り着き、「世をお救いになる真の王はどこにおられますか」と尋ねた時、ヘロデ大王をはじめ、エルサレムの人々は、大変な「不安」を覚えたと聖書は記します。約束のメシヤ来臨は、喜ばしい訪れですが、ある人々にとっては、不安の種にもなることを物語っています。王にとっては新しいライバルの出現であり、他の人々にとっては、自分たちの築いて来た伝統とか慣例とかはどうなるかという不安ではないでしょうか。
王は、祭司長や律法の学者らに、新しい王の誕生について問い質します。彼らは聖書に精通しているからです。「新しい王はベツレヘムで生まれる」という答えが即座に返って来ました。旧約聖書のミカ書から割り出したものです。王は博士たちにこのことを伝え、「見つかったら知らせよ。私も拝みに行くから」と命じます。拝みに行くから・・・、とは礼拝用語です。しかし、拝みに行く心なぞさらさらなく、見つかり次第、殺してしまう考えを心の中に企んでいるのです。礼拝という言葉の裏に隠れた恐るべき企みではありませんか。
また、祭司や律法学者らは、こんな重大な預言を聖書から発見しながらも、その心は全くベツレヘムにはなく、ただヘロデのご機嫌を取るに過ぎず、聖書は彼らにとって信仰の指針を受けるものと言うよりも、ゲームのようなものであり、これを教えると、生活の糧が得られると言われても仕方ありません。何ということでしょうか。彼らは「新しい王の出現」と聞いた時には大変不安を感じたのですが、その不安を解消するために、これを殺してしまう企てをしたり、殊更に無関心を装い、無視する態度を取ったのです。
このことは、大きな教訓です。不安は殺してしまって解消するものではなく、無関心を装い、誤魔化し、無視して解決するものでもありません。不安を真の平安へのチャレンジとして正しく受け止めるなら、大きな祝福となるものであることを忘れてはならないのです。
東の国の博士たちも、慣れない長旅でもあり、不安は増すばかりであったに違いありません。しかし、彼らはその不安から逃れようとはしません。この聖地と言われる地にあって、このような冷たい不信仰な壁に直面しても、救い主を求める心は変わらず、一層熱く求道心に燃えるのでした。人の心が横柄で冷たくあっても、それで一緒に冷えてしまうなら、不安は一層募りこそすれ真の安らぎは得られないことは明らかです。
博士たちは、不安・冷淡・殺意の入り乱れる中にあって、信仰によってこれを乗り越えたのです。彼らの心はエルサレムからベツレヘムへと新しい希望に燃えての出発でした。そして、ついに待望の救い主にお目にかかり、黄金、乳香、没薬などを幼子に献げ、満ち足りた心で自分の国へと帰ることができたのです。
博士たちが、このような貴重な旅をして我が家に帰った時、そこで得た人生の宝は何だったのでしょうか。不安はあったがそれを乗り越えて良かった。あれを乗り越えなかったら今の平安はないのだということであったに違いありません。これが私どもの人生経験でありたいのです。
イエス様の救いを知るようになり、この方を心の王座に迎えて、その生涯を貫こうとするなら、必ず不安が伴い、困難に直面します。冷たい人間の無理解や、誤解にもさらされることがあります。
パウロもコリントの町へ伝道に入って行った時には心が揺れて不安におののいたと申しています。マルチン・ルターは宗教改革の偉業を成し遂げる中で不安にわななき、妻から「あなたの神は死んだのですか」といさめられて再起したと伝えられています。
人生において、信仰の戦いにおいて、何事をなすにも不安はつきものです。不安も何もないような人生、それはいい加減な人生なのです。榎本保朗牧師は、「イエスを心に迎え入れるということは、私たちの人生に一つの不安を呼び起こすことだ」と申しておられます。イエスに対する信仰の光を掲げて進む生活の中に、果たしてこれで良いのかと、暗き世にはあまりにも弱く小さい自分を感じて不安を覚えます。しかし、不安に挫けてはなりません。挫けなかった博士たちが救い主を発見して喜んだように、私たちも、私たちのうちに誕生し、生きて働いて下さる主イエスを喜びつつ、未来を信じて栄光の望みに生かされて参りとうございます。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。