先日私は、秋田県の最南端にある院内銀山跡を訪問し、長年の願いをついにかなえることができました。
湯沢市に住む友人が付き合ってくれました。地域の歴史をよく調べている友人の案内のおかげで、共葬墓地の一角にあるクリスチャン夫婦の墓石、誓願寺に安置されるマリヤ観音、雄勝町寺沢のキリシタン殉教者慰霊の碑など、貴重なものを多く見ることができました。
院内銀山は1954年に閉山されるまで、およそ350年にわたり栄えた東洋随一の銀山でした。最盛期には付近一帯に1万5千もの人口を抱え、城下町の久保田(現在の秋田市)に匹敵するほどの大都会だったとか。現在はうっそうとした杉林に覆われ、その事実がとても信じられませんでした。
この銀山に諸国から多くの流れ者たちが集まってきたそうです。その中に迫害ゆえに西国を追われた多くのキリシタンたちが含まれていました。
1619(元和5)年、イエズス会の宣教師アンジェリスが出羽・仙北地方を訪ね歩いた際、そこで200人ものキリシタン信者を発見しました。翌年にはカルバリオ神父が院内銀山を訪問し、滞在しています。これらの神父たちは後藤寿庵ゆかりの福原を拠点として、東北各地を歩き回っていたことが知られています。
基本的に彼らはただ訪問して歩いただけです。諸国から集まったキリシタンたちが、そこで積極的な伝道活動を展開していたと思われます。信者のほとんどは下層階級の人々で、それゆえに東北キリシタンの歴史は上からではなく、下から始まったところが注目すべき点です。
当初、布教活動が黙認されていた佐竹藩でも全国的な流れを受け、迫害が始まりました。イエズス会の年報によれば、1624(寛永1)年に115名のキリシタンたちが久保田まで連行され処刑されたとのこと。その中に25名の院内銀山の労働者たちが含まれていました。
友人と二人で銀山跡を巡りながら一番感動したのは、正楽寺というお寺が立っていた跡に立つキリシタン殉教の慰霊碑です。高さ約1メートルの黒みかげ石の表面には十字架と「心の清い人は幸なり。その人は神を見る」との聖書の言葉が刻み込まれていました。仏教の僧侶が私財を投じてこの慰霊碑を建てたと聞かされ、さらに驚きました。
佐竹藩の経済を支えた院内銀山は、同時にキリシタン殉教の地でもありました。鳥のさえずりしか聞こえない静寂の山中で、人の世のはかなさと、信仰の確かさの両方を思いました。
(『みずさわ便り』第104号・2013年12月1日より転載・一部編集)
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若井和生(わかい・かずお)
1968年、山形県生まれ。1992年より国立フィリピン大学アジアセンターに留学し、日比関係の歴史について調査する。現在、岩手県の水沢聖書バプテスト教会牧師。「3・11いわて教会ネットワーク」の一員として、被災地支援の働きを継続中。妻、8歳の息子と3人家族。