人工妊娠中絶に関する法律
一般に「中絶」あるいは「堕胎」という言葉が使われますが、「人工妊娠中絶」が正式な名称です。法律的に人工妊娠中絶とは、妊娠中の胎児を、まだ母体外で生命を保持できない時期に母体外へ人工的に取り出して、生命ある胎児の誕生を中断し、抹殺する行為です。
この人工妊娠中絶に関してわが国では、刑法で中絶を禁止する「堕胎罪」と、法律で中絶を認める「母体保護法」があります。現状は、堕胎罪が有名無実化し、中絶を認める母体保護法によって中絶が日常茶飯事のように行われているのです。
堕胎罪
刑法で堕胎罪は、「自然の分娩期に先立って胎児を母体外に排出し、あるいは母体内で殺害することをいう」と定義されています。
わが国で江戸時代までは、「間引き」と呼ばれる嬰児殺しや堕胎は半ば必要悪として存在していました。しかし1880年、堕胎罪の制定によって初めて中絶が禁止され、1907年の刑法改正後も現行刑法で堕胎罪は存続しています。
これはフランス刑法の堕胎禁止を導入して作られたもので、傷害や放火などに近い重刑です。しかし、堕胎罪が一般法であるのに対し、優生保護法(改名して母体保護法)は特別法であるため、後者の特別法が優先されます。
そのために堕胎罪は無きに等しいものとなり、母体保護法を隠れ蓑にして中絶が公然と行われ、堕胎罪は刑事システムとして殆ど機能していないのが現状です。
堕胎罪は、明治政府によって制定された刑法です。明治政府は、富国強兵のために出産増強を図りました。中絶行為を処罰することで避妊や中絶を禁止する一方、結婚や多産を奨励する「人口政策確立要項」を閣議決定し、政策を強化しました。
優生保護法
優生保護法の思想的背景としては、ドイツのナチス政権がゲルマン民族至上主義を唱え、混血児防止策として1933年に制定した「強制断種法」、また、種族保存を名目として1940年に制定した「国民優性法」が挙げられます。
日本は1945年、第二次大戦後に外地からの引き揚げ者の女性から混血児が生まれることを危惧し、民族としての純潔が保持できなくなるという国家の恐れから、入港時、妊娠中の女性全員に対して強制的に中絶を実施しました。また、敗戦による引き揚げ者等による人口増加や食糧不足、先天性遺伝病者の出生抑制を大義名分化して「国民優性法」を改正し、その中に「人工妊娠中絶条項」を加え、中絶を可能としたのです。
こうして1948年、敗戦の混乱期に議論らしい議論は何もされずに、胎児の殺害を可能とする超法規的法律=殺人法、すなわち「優生保護法」がわが国に成立し、施行されました。「日本が殺人法を作った!」と、世界の法曹界を驚かせました。
そして、1996年に「母体保護法」が施行されるまでの約半世紀間、この優生保護法がわが国の人工妊娠中絶を合法化していたのです。
優生保護法による中絶手術の適用は、次の4つの事由によって行われます。(1)優生学的事由=当事者または近親者(四親等以内)に遺伝的疾患がある場合(2)医学的事由=身体的理由により、母体の健康を著しく害する恐れのある場合、または、当事者がハンセン病の場合(3)経済的事由=経済的理由により、母体の健康を害する恐れのある場合(4)社会的事由=暴行または脅迫によって妊娠した場合です。
そして今まで、この優生保護法によって何百万何千万という、数えきれない天文学的な数の胎児のいのちが抹殺されていきました。そして今、母体保護法という名に変名して胎児が殺戮されていくのです。
母体保護法
「不良な子孫の出生を防止する」という大義名分で制定された優生保護法は、日本人の生命観に生命軽視という決定的なダメージを与え続けました。
しかし1994年、ある国際人口開発会議で、日本の優生思想そのものが「人権侵害、時代遅れ」と世界の批判を浴びたことがきっかけとなり、優生思想が排除されることになりました。
そして1996年6月、優生保護法の一部改正による「母体保護法」が国会に提出され、優生学的理由の人工妊娠に関する規定の削除などをして、その名も優生保護法から母体保護法と改められました。
改正の主な内容は(1)「不良な子孫の出生を防止する」という規定を削除(2)「優生手術」を「不妊手術」と改正し、遺伝性疾患等の予防および精神障害者に対する本人の同意によらない手術に関する規定の排除(3)遺伝性疾患等の優生学的理由の人工妊娠中絶に関する規定の排除(4)優生保護法相談所の廃止、に要約できます。
半世紀ぶりの改正案をめぐって、優生思想に基づく「不良な子孫の出生を防止する」規定の改正という側面からの賛成論と、人工妊娠中絶は「母体保護」のためになされるべきものではなく「女性の選択」として行われるべきであり、女性の健康や権利を保障する抜本的な改正をなすべきという反対論もありました。
しかし、法律改正の議論の中心は「人工妊娠中絶」であるべきです。この優生保護法から母体保護法への改正を、優生思想の誤りを指摘したものとして受けとめるよりもむしろ、「いのちの選択は、人間の権利の範疇にはないのだ」と確認しなければならないのです。「すべての人間に生存権があるんだよ、誰でも生まれてくる権利があるんだよ」と言える人間社会の実現が急務です。人間にはいのちの選択権など無いのです。
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辻岡健象(つじおか・けんぞう)
1933年生まれ。大学卒業後、7年間ビジネスマンとして実業界で活躍。神学校卒業後、20数年間牧師として奉仕。現在、いのちの尊厳を標榜し全国に3000人余の会員を有する「小さないのちを守る会」代表。特に現代のいのちの軽視と性の乱れに痛みをおぼえ戦いながら、中・高・大学、PTA、教育委員会、公民館、病院、ロータリークラブ、VIP、教会、各キャンプ等で講演活動。新聞雑誌等に寄稿し、テレビにも出演して現代社会における「いのちと性」のあり方について訴える。未婚女性妊娠問題等にも具体的な援助。中学・高校教員免許資格取得。教育学博士。著書に『小さな鼓動のメッセージ』他。趣味はスキー、マジック、腹話術。
■ 外部リンク:「小さないのちを守る会」ホームページ