今回は、13章10~17節と14章1~6節を読みます。ここでは、イエス様が安息日になさった2つの出来事が伝えられています。安息日とは土曜日のことですが、創世記1~2章に伝えられる、神様が6日間で世界を創造され、7日目に休まれたことを覚える日です。ユダヤ人が、世界創造の御業をたたえ、神様が休まれたことに倣い、仕事をせずに休む日です。
今回の2つのお話は、他の福音書では伝えられていない、ルカ福音書に固有の記事でもあります。
腰の曲がった女性の癒やし
13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
安息日には、仕事を休むだけでなく、会堂(シナゴーグ)に行って礼拝をします。今日、教会における日曜日の礼拝では牧師が説教をしますが、安息日に会堂で行われる礼拝ではラビ(教師)が聖書の教えを説き明かします。イエス様はラビですから、エルサレムへの旅の途中でも、安息日には会堂の礼拝において教えておられました(第8回参照)。
そのような安息日に、イエス様がある会堂で教えておられると、18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がった女性が参加していました。
ここで「病」と訳されている言葉のギリシャ語の原語は、「アステネイア」です。これは、本来は「弱い」という意味の言葉です。ギリシャ語で病を意味する言葉は通常、「テラペイア」が使われますので、ここでの「病」は通常とはニュアンスが違います。
直訳すると、「弱い状態にさせる霊に取りつかれている女性」となります。そのような霊に取りつかれているから、腰が曲がっているということです。
そして、弱い状態にさせる霊に取りつかれているということは、この女性の立場も示しています。腰が曲がっているということによって、周囲の人に奇異な目で見られていたということであり、この女性がそのような弱い立場にあったことを、「アステネイア」という言葉は示しています。
イエス様はその女性に、「婦人よ、病気は治った」と言われて手を置かれました。そうすると、女性の腰はまっすぐになったのです。「治った」という言葉のギリシャ語の原語は、「アポリューオー」です。「解放する、自由にする」という意味合いを持つ言葉です。イエス様は女性に、「病気から解放された」と宣言されたということなのです。
ところが、この会堂の会堂長は、イエス様が安息日に病人を癒やされたことに腹を立てたました。会堂長とは、会堂を運営・管理する人です。会堂は地域コミュニティーの中心的な存在であり、会堂長は地域コミュニティーの中で影響力を持つ権威のある人です。ですから、よそからやって来たラビに対して文句を付けるくらいのことはするでしょう。この時も、イエス様のなさったことに対して一家言あったのだと思います。
けれどもこの会堂長は、イエス様に直接文句を言うことはせずに、自分の影響力が及ぶ地域の人々に対して、「いつもあなたたちの世話をしているのだから、さあ私を支持してくれ」とばかりに、「安息日に癒やしの業を行ってはいけない」ということを言ったのです。けれども、イエス様はそこでは引き下がりませんでした。
15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶(おけ)から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
会堂長を取り巻いている人たちに向かってイエス様は、「安息日が休む日であっても、家畜に水を飲ませることは許されているではないか」ということを言われたのです。実際、家畜は水を飲まないと生きていけませんから、家畜に水を飲ませるという仕事は認められていたのです。それなら、ましてアブラハムの娘であるこの人が18年間も苦しんでいたのだから、その人を安息日に苦しみから解放してあげるのは当然だ、とイエス様は言われたのです。
「アブラハムの娘」というのは、アブラハムの子孫である女性ということであり、本来はイスラエル民族を意味しています。ですから普通に考えれば、このくだりは、「家畜でさえ安息日に水を飲みに行かせるのに、ましてやイスラエス民族のこの女性に癒やしの行為をするのは、おかしなことではない」という意味になるでしょう。
けれども、ここで「アブラハムの娘」という言葉が出てくるのには、また別の理由があると私は考えています。
ルカ福音書は、男性と女性をペアにして書かれているお話が多い福音書です(第2回参照)。今回のこのお話は、実は19章1~10節に登場する徴税人ザアカイのお話とペアになっています。
ザアカイは、イエス様を自分の家に招いたときに、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」(19章9節)と言われました。「アブラハムの子」は男性形ですから、「アブラハムの息子」ということです。今回のお話で女性が「アブラハムの娘」とされていることと、ザアカイが「アブラハムの息子」とされていることで、この2つのお話はペアになっているのです。
2つのお話には、共通点があります。それは2人が弱い立場にあるということです。腰を癒やされた女性は、「弱い状態にさせる霊に取りつかれて腰が曲がっており、そのことで忌避されていた」のですから、弱い立場にあった女性だったのです。
一方、ザアカイは徴税人でした。徴税人は、人々からより多くの税金を取ることによって収益を得ていたので、いわばだまし取るような形で税金を取っていた人たちでした。そのため、彼らはお金を持っていたかもしれませんが、人々に忌み嫌われていたのです。ザアカイも、金持ちではあっても弱い立場にあったのです。
これが2つのお話の共通点です。2人は、イエス様から「アブラハムの息子・娘」と呼ばれるアブラハムの子孫でありましたが、弱い立場にあった人たちでもあったのです。
イエス様が、弱い立場にあった女性を安息日に癒やされ、社会への参画を促したとことが、このお話が意味していることであると思います。
水腫の人の癒やし
14:1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 6 彼らは、これに対して答えることができなかった。
別の安息日に、イエス様は食事をするため、ファリサイ派の議員の家に入られました。当時は、ラビを安息日の祝いの食事に招く習慣があったようですので、そのためであったのかもしれません(第9回参照)。そこには、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちがいました。自分たちに都合の良い律法解釈をする彼らは、イエス様が何をするのかと様子をうかがっていました。
そこに、体(この場合は恐らくお腹)が腫れ上がる病である、水腫を患っている人がいました。この人は、なぜそこにいたのでしょうか。それは、イエス様に病を癒やしてもらいたかったからそこに来ていたのだと私は考えます。そして、イエス様はその思いを察知されていたのだと思います。
しかし、安息日に腰の曲がった女性を癒やして、会堂長に「安息日に癒やしの業を行ってはいけない」ということを言われた後だったからでしょうか。イエス様は、ファリサイ派の人たちと律法の専門家たちに、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と質問をされました。
その質問に彼らは黙っていました。この沈黙の意味は何でしょうか。彼らの答えは会堂長と同様に、「安息日に癒やしの業を行ってはいけない」であったと思います。しかし、それを言うことができなかったのです。自分たちの持っている答えに、内心では、律法の持つ神様の御旨の真の意味を見ることができなかったからかもしれません。
イエス様は水腫の人の手を取り、病気を癒やしてお帰しになりました。この「お帰しになった」という言葉のギリシャ語の原語は、前述した、腰の曲がった女性に対して「治った」と言われたものと同じ「アポリューオー」です。「解放する、自由にする」という意味合いを持つ言葉です。つまりイエス様は、「水腫の人の手を取り、病気を癒やして解放された」のです。
安息日律法の真の意味
民数記5章27節には、「水を飲ませたとき、もし、女が身を汚し、夫を欺いておれば、呪いをくだす水は彼女の体内に入って苦くなり、腹を膨らませ、腰を衰えさせる。女は民の中にあって呪いとなるであろう」とあります。水腫は女性にとっては姦淫(かんいん)の罪の結果とされる病であり、「民の中にあって呪いとなる」、つまり社会において忌避されていた病なのです。
腰の曲がった女性が、弱い状態にさせる霊に取りつかれて弱い立場にあったように、水腫を患っていた人も病の故に人々から忌避されていました。また、「腰を衰えさせる」ともありますから、腰の曲がった女性というのは、あるいはそのことを示しているのかもしれません。イエス様の癒やしは、そういった人たちに対する解放の出来事であったのだと思います。
そして、それらのことが安息日に行われたことに、私は注目しています。安息日について記している、十戒の第4戒を読み直してみましょう。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20章8~11節)
安息日は、神様が6日間天地創造の御業を行い、そして休まれた7日目の日です。またこの日は、奴隷や寄留者といった被支配的な立場にある人たちも仕事から解放されていたのです。つまり、この律法が持つ本来の意味は、「仕事をしてはいけない日」ではなく、「仕事から自由にされる『解放の日』」であるのです。
イエス様は、安息日律法が本来意味している「解放の日」としての行動をなさったのです。それは神様の真の御旨であったのでしょう。けれども、会堂長やその影響下にあった人たち、またファリサイ派の人たちや律法の専門家たちは、そこを履き違えて「してはいけない」というものであると考えていました。だから彼らは、「皆恥じ入った」(13章17節)のであり、また「これに対して答えることができなかった」(14章6節)のです。
しかし、「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(13章17節)のです。それは、イエス様のなさったことが、神様の御旨に適うことだったからです。それは、弱い立場にあった人たちが、社会の中で「やり直せます」という出来事でもありました。(続く)
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