キリスト教とレズビアンの存在
続けて堀江さんは「キリスト教とレズビアンの存在」と題して講演した。1970年代から北米のプロテスタント教会では「教会は同性愛を受け入れることができるか」をめぐる議論が広まったが、その中心的なテーマは三つあったという。
① 聖礼典を執行する牧師の資格を認めるか、② 教会の構成員(信徒)としての資格を認めるか、③ 同性間「結婚」の誓約、儀式を執行することを認めるか否かだ。
もともと同性愛者を排除する規則は、多くの主流教会には存在しなかった。このうち②はほとんど議論にはならないが、現在は①と③について議論されているという。カトリック教会は一般的に「同性愛者の存在」を認めているが「同性間の性行為」は自然に反するとして禁止している。韓国ではキリスト教保守派が激しい反発を示しており、ソウルのクィアパレードでは、プロテスタント保守派キリスト教団体が、パレードのトラックの前に横たわって阻止するという危険な状況が頻発しているという。
しかし、堀江さんは言う。「私は万人祭司であるプロテスタントにおいて、そもそも『信徒』はよくて『牧師』がだめということは、教会の中に牧師が上にいて信徒が下にいるという『階層』を認めていることになっていないだろうかと思います」と述べる。
また、「教会は同性愛を受け入れることができるのか」という問いには二つの問題がある、と堀江さんは指摘した。「一つは、『受け入れない』というときに、すでに教会の中に自分が同性愛者であることを自覚していながら、それを語ることができない人がいることはどう考えるのか。そもそもすでに中に『いる』ことを想定していません。二つ目は、議論が、賛成・反対派で頭上を飛び越えた議論となっており、当事者の声がなかなか反映されない状況になっています」
同性愛への反発と憎悪、マシュー・シェパード虐殺事件
米国では1998年、ゲイの活動家だったマシュー・シェパード氏が、反対派から、銃の台座で頭がい骨が粉砕するまで殴られ、死体を車で数マイル引きずられるというヘイトクライム(憎悪殺人)事件があった。その葬儀には保守派クリスチャンが抗議に押し掛け、「NO FAGS IN HEAVEN ISA1:9(イザヤ書1:9には『オカマは天国に入れない』と書いてある!)」「REMEMBER LOT’S WIFE」(ロトの妻を思い出せ!)というプラカードを掲げた。
同性間の性行為を罰する法律の総称は「ソドミー法」と呼ばれ、語源は創世記19章のソドムの罪から取られている。「でもソドムの罪は果たして『同性愛の罪』なのでしょうか。本来は『性暴力』未遂の罪ではないでしょうか」と堀江さんは言う。
旧約聖書では、ロトの元に2人の御使いがやってくる。ロトは家に受け入れるが、そこに町の人間がやってきて「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」と叫ぶ。ロトは未婚の娘2人を差し出すと言うが、男たちは聞かない。ロトと妻と娘は逃げ、ソドムの街が焼き尽くされる。なぜ、ソドムの町は滅ぼされたのか。
「なぶりものにしてやる」は口語訳では「知る」と訳され、原語のヘブライ語では性行為を表す単語として使われていることが多い。男たちが男たちに性行為を強要したことが「ソドムの罪」として解釈された。
しかし、エゼキエル書16:49では「ソドムの罪」はホスピタリティーの欠如の罪として書かれている。創世記で描かれている罪も、同性愛の罪よりも、同意がない「性暴力」を行おうとしたことの罪であることは明らかだ、と堀江さんは指摘する。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった」(エゼキエル16:49)
「創世記の記述が同性愛の罪として解釈されたのは中世末とされ、そもそも『同性愛者』という概念自体が近代の概念であって、それを聖書解釈に当てはめるのは時代錯誤ではないか。もちろん逆に同性愛者の人権擁護のために聖書を根拠として引用するのも、同様の過ちを犯す危険があるのではないだろうか」と堀江さんは指摘する。
この他に新約でも、同性愛者を批判するために引用される箇所が幾つかあるという。
「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」(ローマ1:26、27)
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」(Ⅰコリント6:9、10)
「男娼」と訳される単語「マラコイ」はもともと「やわらかい」の意。そこから派生して「だらしのない」「自制心を欠いた」などの意で、異性間の関係でも使用された。
「男色をする者」と訳される単語「アルセノコイタイ」は、もともとは「男娼」の意味で、男娼は異教の礼拝と結び付いた伝統であったため、非難された。いずれの箇所も、異教(偶像礼拝)との結び付きが批判対象の主眼ではないか、と堀江さんは述べ、「そもそも日本語の聖書の中に『同性愛』という言葉はどこにもありません。アイデンティティーとしての概念も近代の産物なので、ない。ただし、同性愛者の『性行為を否定している』ように見える個所は確かにあります。そもそも聖書には矛盾しているところが多くある。そしてその都度、文脈があって語られています。それを、人を断罪するために引用するのは非常に危ういと考えます」と指摘した。
おわりに
堀江さんのECQAには約100人の会員がいるが、性的少数者は2~3割で、大多数は性的少数者以外の人に支えられているが、去っていく人も多い。ある人からは「あなたたちは、神学や結婚制度など難しい問題ばかり考えている。自分とイエス様の関係だけを考えればいいのに」という手紙が来たという。
その人はレズビアンの人で、聖書をレズビアンとして肯定的に読み、牧師として公言する人がいることに驚いたし、他のゲイやバイセクシュアルの人たちがクリスチャンでいることにとても驚いた、と語っていたという。
また、こんな話もある。ある女性は教会がとても好きだったが、自分はレズビアンかもしれないと周囲の人たちに語ったところ、教会の中で仲間がいなくなり、誰も話し掛けてこなくなった。そして、牧師に呼ばれ「あなたは間違っている」と聖書の箇所を示して説教された。自分は罪だとしか思えず生きてきたが、ECQAの活動を見て「ほっとした」という。
しかし、その後、彼女はそれでも教会に通い続けたいと思い、レズビアンであることを語るのはやめようと決め、「この前変なことを話したけれど、気の迷いだった」と語ると、教会はまた居心地が良くなった。
堀江さんはそれがとても悲しかったという。「自分が大事にしていることを大事な教会の仲間に伝えたのに、村八分にされ、無視されたからレズビアンではないとうそをついてまで懇願して再び受け入れてもらった。それは果たして、彼女にとって良いことだったのだろうかと考えています。自分がレズビアンであることは隠さざるを得ない。そのこと自体は、神と自分の関係の中だけのものとして留めておく」
「しかし、私は、キリスト教は神様と自分の関係だけではなく、共同体の中にあって初めて自分の信仰が育まれるのではないか、と考えています。私自身も人々の間で信仰を育まれました。自分の大事な要素を語ることができず、神と個人の関係のみを追求するのであれば、教会に来る必要はないのではないでしょうか。共同体であるために、人と人の間に働かれる『神の業』『神の力』の中に神が介在するのではないでしょうか。この幾重にも生み出される分断線に、どのように橋をかけたらよいのでしょうか」
「かたくなに同性愛者を排除しようとする人々の場合、おそらく対話は困難かもしれません。『同性愛者は生きてはいけない』と考える人々は、その背後に、必要以上に『神』を背負っています。なぜかたくなに『神』を引用するのでしょう。そのような人々が持つホモフォビア(同性愛嫌悪)という感情の背後には『恐怖』があるのだと思います。恐怖があるから、自分たちが解釈した権威に頼り、攻撃性を示すのではないでしょうか。同性愛者を排除しようとする人たちの、その恐怖心をどう取り去っていけるのか。それを共同体の中で考えていくことができないかと考えています」
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