現地時間1日夜(日本時間2日午後)、ネバダ州ラスベガスで米国史上最悪の銃乱射事件が発生した。日本に伝えられている3日昼までの情報によると、59人が死亡、500人以上が負傷した。ドナルド・トランプ大統領もこの件に関して追悼の意を述べると同時に、「純然たる悪の所業」と犯人や事件そのものを強く非難。各国から哀悼の意が伝えられているという。これから犯人像やその宗教的背景、生活状況などが明らかになっていくのだろう。
世界中を震撼(しんかん)させる事件の1つになってしまった今回の乱射事件だが、正直日本人としては「またか」と思わざるを得ない。銃による悲劇、という観点から見るなら、このような事件は米国では毎年発生している。誤射、乱射、暴動下での暴発など、さまざまな要因があるだろうが、すべて銃が絡んでいるという点で、日本人にはこのような事件が頻発する環境をなかなか理解できない。だから単純に「アメリカって怖い国だね」と考えてしまったり、日本の銃規制の現状から考えて「銃の所持を禁止したらいいのに」と気軽に発言したりしてしまう。しかし事はそう簡単ではない。なぜなら「アメリカ」という国家にとって、銃は単なる殺傷能力を持った武器ではないからである。そこに込められた彼らの建国以来の願い、これを理解しなければ、真の銃規制など望むべくもないのである。今回は、銃と米国の関係について述べてみたい。
米国での銃による悲劇として私が鮮明に覚えているのは、1992年10月に起きた日本人留学生射殺事件である。米国に留学していた日本人高校生の服部剛丈(よしひろ)さん(当時16)が、ハロウィン衣装のまま民家に近づいたため、恐怖を感じた家主によって射殺された事件である。その後、服部さんの両親は米国の銃規制のために奔走し、クリントン政権下の93年に、その働き掛けは銃の規制を目的としたブレイディ法として結実した。だが刑事裁判では、家主は無罪となっている。また、ブレイディ法も2004年には法的拘束力を延長しない決定がブッシュ政権下でなされ、廃案となっている。
ネットで「米国 銃乱射事件」などのキーワードで検索すれば、多くの事件が出てくる。専門的な知識や情報を持っていない人であったとしても、例えば1999年にコロンバイン高校(コロラド州)で起こった乱射事件は覚えているだろう。これは、マイケル・ムーア監督が2002年に「ボウリング・フォー・コロンバイン」として映画化している。映画の指針はかなり恣意的ではあるが、全米ライフル協会の会長役がチャールストン・ヘストン(「十戒」や「ベン・ハー」の主演男優)など、いろんなトリビアを日本に提供してくれた。
最近では、15年6月にサウスカロライナ州チャールストンの黒人教会で起こった乱射事件だろう。当時21歳の白人男性が黒人教会に乗り込み、アフリカ系米国人男女9人を射殺した事件である。この事件では、ヘイトクライム(増悪犯罪)や人種問題の軋轢(あつれき)が声高に叫ばれた。個人的には、12年に「ダークナイト ライジング」が上映されていたコロラド州の映画館で起こった乱射事件も大きな衝撃だった。米コミック『バットマン』を原作とした実写映画だったが、犯人は自らを「(『バットマン』に登場する悪役の)ジョーカーだ!」と叫び、観客に向けて発砲したという。
こういった事件が頻発する国、それが「アメリカ」である。しかしその度ごとに、他国は思うことになる。「どうして銃を国家が規制しないのか?」と。
それに対しては、明快な回答が存在する。そしてこの回答は、私たち日本人には到底理解し難いものと映る。その答えとは以下の言葉である。
規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない。(合衆国憲法修正第2条)
これは一般的に人民の「武装権」と呼ばれており、国民が自由な国家を形成する主権者として、武器を保持することを規制しないことがうたわれているのである。1787年の憲法制定からわずか4年後に、この条項が組み込まれている。
もちろん、これに関する解釈や歴史的経緯については諸説ある。WASP(プロテスタントのアングロサクソン系白人)に代表される米国保守層は、建国の理念、その歴史的意義を、「小さな政府の実現」というスローガンの下に結集させようとしているため、この「武装権」を肯定的に受け止め、いかなる不測の事態が生じても、これを変えることにはくみしない。
なぜなら、「自由な国家を建設するため、自発的に国民が民兵となった」からこそ、米国は欧州の束縛から解放され、現在の連合国家(United States)をこの地に生み出すことができた、と彼らは自負しているからである。
だから、(一応?)共和党を支持母体とするトランプ政権下では、犯罪そのものを「純然たる悪の所業」と非難することはできても、「いかにして犯罪をなくすか」を問うとき、銃を規制しようという発言は出てこない。彼は次のように述べている。
「悲劇と恐怖に見舞われたとき、米国は一つに結束する。これまでも常にそうだった。われわれの結束は悪によって打ち壊されることはない。われわれの絆は暴力によって引き裂かれることはない。われわれは、同胞の市民たちが無分別に殺害されたことに対し、大きな怒りを感じている。だがきょう、われわれを特徴づけるのは愛だ。それは今後も、永遠に変わらない」(AFP通信の邦訳より)
この銃規制に本気で取り組んだ大統領が、前職のバラク・オバマ氏(民主党)であった。しかしいきなり銃を取り上げる「現代の刀狩り」を提唱したのではない。個人による銃購入、ネットでの銃販売に対して、身元調査を徹底することを提案したのである。しかし13年4月、これは上院議会で否決される。この時オバマ氏は、「ワシントンにとって恥ずべき日だ」と声を荒げたが、すべて後の祭りであった。
私たちは次のことをしっかりと押さえておくべきである。
米国民(特に保守層)にとって、「銃」とは自由と独立の象徴であり、「武装権」の保持と継続こそ、建国の理念を体現する最も具体的な存在である。
だから「銃規制」はなかなか進まない。銃による悲劇的な事件が起こっても、州の法案として限定的な規制にとどまるか、または「いかにして」という部分を問わずに、感情的な「追悼」へと流れていくことになる。この前提を踏まえた議論を展開しなければ、いつまでも「アメリカって怖いね」「よく分からないね」で終わってしまう。
銃をめぐる問題は、一つ一つの事件にこそ目が注がれやすい。今回の事件ではおそらくこれから、犯人像などがつまびらかにされ、それを踏まえての追悼集会などが催されることだろう。これは、米国の「統合作用」が機能することを意味する。その心には純然たる善が宿っていることは否定しない。しかし、結果として「いかにして現状を改善するか」という具体的な視点が、感情的な「心の癒やし」によって鈍らされてしまうとしたら、それは今までとまったく変わりない在り方に落ち着いてしまうことを意味する。
確かにこれが米国の現状であり、そこにキリスト教に代表される宗教界は「大いに貢献」することになろう。しかしこれを一体いつまで繰り返すつもりなのか? 米国のキリスト教界は社会に切り込む方策を持っていないのだろうか?
あの公民権運動をリードしたのは誰だったか? マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは「牧師」である。彼は主観的に流されやすい人種間の問題を、あえて「法的視点」に持ち込むことで、宗教が社会的に人々をリードできるという姿を、「牧師」という立場から示した。もちろん公民権運動は完璧ではなかった。その後のさまざまな問題を生み出す温床となったことも否定できない。だが彼を通して、人種問題は新たな視点からの解決を得る方策を得た。
同じことが銃規制にも言えないか? 確かに建国の理念に通ずる大きな問題である。しかし、人種問題も同じく「建国の理念」を揺るがす大きな問題であったはずだ。
キリスト教は人々を救いに導き、罪を清め、新しい生き方を提示することができる。しかしその論理が、本当に見据えなければいけない問題の本質から、国民の目を逸らすことに用いられる可能性がある、という危険性をしっかり踏まえて「追悼」行為を行うべきである。
「ラスベガスのため、米国のために祈ろう」という言葉を聞くようになるだろう。私も祈りたい。私も本当に彼らの傷が癒えることを願う。だからこそ、「いかにして」という具体性を議論することも含めた「神の業」を祈る者でありたい。
皆さんはいかがであろうか?
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