宗教倫理学会第17回学術大会が9日、関西大学(大阪府吹田市)で開催され、公開講演として、柏木恭典氏(千葉経済大学短期大学部こども学科准教授)が「赤ちゃんポスト研究の最前線―生命保護と権利擁護の狭間で」と題して、赤ちゃんポストの発祥国であるドイツの現状や日本の課題について発表した。柏木氏は、教育学、児童福祉学の研究者で、『名前のない母子をみつめて―にほんのこうのとりのゆりかご ドイツの赤ちゃんポスト』(共著、北大路書房、2016年)などの著書がある。
赤ちゃんポストは、日本では2007年5月、慈恵病院(熊本市)に「こうのとりのゆりかご」として初めて設置され、以後9年間に計125人の赤ちゃんが預け入れられた。また今年9月には、「こうのとりゆりかごin関西実行委員会」が設立され、今後2年以内を目標に、大阪、京都、兵庫の3県の病院内に設置するプランが発表されている。
赤ちゃんポスト誕生の背景とナチス・ドイツのホロコースト政策
柏木氏によると、ドイツでは00年に教育学者によって「社会の片隅で誰にも相談できない妊婦が、子どもを遺棄、殺害することがないように」と、初の赤ちゃんポストが設置され、その後キリスト教系の母子支援団体を中心にドイツ全土に広がった。現在の設置数は100カ所を超え、累計300人以上の子どもが預けられたという。
ドイツでは「Babyklappe」(「klappe」は「扉」の意)と呼ばれており、公共施設にも赤ちゃんポストの存在を知らせるポスターなどが貼られ、社会的な認知度は高いという。
柏木氏は、その背景を理解するためには、ドイツの歴史と「匿名出産」「妊娠葛藤相談」という制度の理解が必要だと指摘した。ドイツでは1970年ごろから人工妊娠中絶と「胎児の生命の保護」をめぐり、世界でも類を見ないほどの激しい論争が繰り広げられ、膨大な数の論文や書物が出版された。その背景には、第2次世界大戦のナチス・ドイツによる、人権や人間の尊厳を否定し生命の選別を行ったジェノサイド政策への深い反省があるという。ナチスは「障がい者だから」「ユダヤ人だから」「ロマ(ジプシー)だから」という理由で強制断種手術を行い、種の絶滅をもくろんだ。戦後のドイツは「人間の尊厳」を何よりも優先しなければならない課題としており、現在もその影響は強いという。そうした歴史的反省の上に、「赤ちゃんポスト」制度はキリスト教的な生命保護の実践と、リベラル・民主主義的な教育学的実践という流れの中から生まれたという。
「妊娠葛藤相談」制度
ドイツでは現在、92年に制定された「妊娠の葛藤状態の回避及び克服のための法律」により、国内に約1600カ所の「妊娠葛藤相談所」が設置されている。望まない妊娠をした妊婦が、「産むか・中絶するか」の選択に際し、助産師や社会福祉教育士、ソーシャルワーカー、医師などの相談を受ける制度ができており、中絶を希望する妊婦は相談を受け、「許可証」を得なければ手術を受けることができない。当初、相談業務は実質的にはキリスト系の福祉支援団体(大きな影響力を持つカトリック系の「カトリック女性福祉協会」(SkF)や「カリタス会」、プロテスタント系の「ディアコニー事業団」)が担っていたという。
しかし、98年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、妊娠葛藤相談に対して、カトリック信者が妊娠中絶の許可証を出していることに厳しい態度を表明したため、カトリック系支援員は業務から手を引くことになり、その代替策として「匿名出産」「匿名相談」制度が考案されたという。
「匿名出産」制度
「匿名出産」は、カトリック女性福祉協会のメンバーだったマリア・ガイス=ヴィットマンが長年の支援で、相談に来ることの困難さや抵抗を感じる妊婦たちが、医療機関などの施設で匿名で出産することのできる可能性を模索する中から生まれた制度だ。ヴィットマンは99年に匿名出産の実施を公表し、ドイツ国内外で大きな話題となった。この影響を受け、フランクフルト学派の教育学者、ユルゲン・モイズィッヒが2000年4月、匿名で新生児を置き去ることのできる「37度のベッド」と「オートロック式の扉」を、自身の幼稚園の一角に設置し運用を開始した。同時に、赤ちゃんポスト利用後の支援策として母子支援施設も設置した。その後、赤ちゃんポストは各地に設置され、02年には約70カ所まで拡大し、「赤ちゃんポストブーム」と呼ばれたという。
赤ちゃんポスト研究と批判、子どもの「出自を知る権利」を保障した「内密出産法」
ドイツでは実践と同時に、教育学や法学、倫理学からの研究や、赤ちゃんポストと匿名出産が実際にどう運営され、成果が出ているかについての実証的な研究、国際比較研究も積み重ねられてきたという。
また、匿名性に対して、子どもの「出自を知る権利」からの批判や、「女性たちは助言を求めているのであり、自分の子を置き去ることは求めていない」という批判もあった。実践者たちの中でも論争があり、カトリック女性福祉協会は03年、「完全な匿名での出産の許可ではなく、厳しい状況下の女性が自身の個人情報に関する内密性を保障し、同時に、生命、養育、自身の出自に関する知、また父親の権利と義務といった子どもの基本権を念頭に置くような法の整備を支持する」という声明を発表、これを受けて政府も報告書を出し、新たな制度への議論が進んだという。
その結果、13年に「妊婦支援の拡大と内密出産の規制のための法律」(内密出産法)が制定された。これは、子どもを預ける際、母親が受取人に住所や氏名などの情報を渡し、情報は行政で保管され、子どもが15歳になったとき、「その情報を見ることのできる権利」が与えられることで、子どもの「出自を知る権利」を保障した制度で、現在は赤ちゃんポストと併用して運営されているという。
しかし現在も、赤ちゃんポストをめぐっては、「どれだけ相談制度を整えても、制度の網からもれる女性は必ずいる以上、廃止すべきではない」という意見と、「赤ちゃんポストは妊婦の身体的な出産時のリスクを回避できない。最も優先すべきは、医療機関における安全な出産を保証することであり、また実親の名前を後に知る手がかりを得ることである」という意見の間で激しい論争が続いているという。
これからの日本の赤ちゃんポストをめぐる5つの課題
柏木氏は、ドイツの現状を報告した上で、日本の現状について5つの提案を行った。
① 赤ちゃんポストを必要とする緊急下の女性の心理に合わせた相談支援システムづくり
日本では公的相談体制が弱く、「匿名出産」の議論すらなされてない。赤ちゃんポストを利用する以前の段階での妊婦に対する相談支援システムづくりが必要不可欠。
② 赤ちゃんポストに預けた「その後」の議論
これまで125人の乳児が預けられており、ニーズが高いことは明らかだが、その後の養護問題や、「出自を知る権利」を含めた権利問題についてもしっかりとした議論がなされる必要がある。
③ 赤ちゃんポストへの学問的な批判、研究の必要性
国内にも赤ちゃんポストに懐疑的・批判的な立場の研究者が存在する。医学や保健学、児童福祉学、法学、生命倫理学などからの学術的な反省や研究が必要。
④ 赤ちゃんポストを求める緊急下の女性へ対する理解や具体的な支援策の検討
「なぜ母親は誰にも相談せずに、自身の子どもを遺棄・殺害するのか」という問いについて、遺棄・殺害・虐待・心中などの問題を包括的に捉え、「どうすれば実母などによる最悪の事態を回避し得るのか」についての議論が必要。
⑤ 危機的状況下における日本人の問題解決能力の育成
日本では、社会的同調圧力などから危機的状況下にいても、「助けて!」と言いにくい。まして、「望まない妊娠」ではその傾向はさらに強い。タブーとされがちな性の問題を含め、問題解決のための第一歩である「相談しに行く」ことを踏み出す、自律的な力を育成する「人間形成」「人間育成」が必要。