今回から3回にわたって、第1ヨハネ書4~5章を読みます。ここでは、私たちの「愛」と「信仰」と「永遠の命(希望)」が伝えられています。その意味では、上図の下側のラインについて書かれているといえましょう。そして、そこに「霊」の力が働いていることが書き加えられているといってよいでしょう。今回はそのうちの4章1~14節を読みます。
惑わしの霊を持つ者と真理の霊を持つ者
1 愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て行ったからです。2 イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。3 イエスを告白しない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。あなたがたはその霊が来ると聞いていましたが、今やすでに世に来ています。
4 子たちよ、あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたの内におられる方は、世にいる者より大いなる者だからです。5 彼らは世から出た者です。そのため、世のことを語り、世も彼らに耳を傾けます。6 しかし、私たちは神から出た者です。神を知る人は、私たちに耳を傾けますが、神から出ていない人は、私たちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と惑わしの霊を見分けることができます。
今までお伝えしてきたように、本コラムは「短い第2ヨハネ書は、少し長めの第1ヨハネ書の要約版とみることができる。つまり、第2ヨハネ書が詳細に展開されているのが第1ヨハネ書である」というスタンスで執筆しています。
第2ヨハネ書の中核が、7~8節の「なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」であることは、第2回でお伝えしました。反キリストから教会を守ることが、第2ヨハネ書の執筆目的であったといえるでしょう。
今回の第1ヨハネ書4章1~6節は、反キリストに対する警告がまとめて伝えられており、内容的に第2ヨハネ書7~8節に該当しているといってよいでしょう。先に述べたように、「第2ヨハネ書が詳細に展開されているのが第1ヨハネ書」であるので、第2ヨハネ書の中核部がここで詳述されているとみることができます。
第1ヨハネ書の執筆目的は、今回の箇所において伝えられていると思います。反キリスト(アンティクリストス / ἀντίχριστος)とされている偽預言者への警戒を促すために執筆されているのです。彼らは「真理の霊」ではなく「惑わしの霊」を持った者たちであったのです。
では、真理の霊、すなわち聖霊によって歩まされている者たちとは、どういう人たちなのでしょうか。それが4章7節以下で伝えられているのであり、具体的には「愛」「信仰」「永遠の命(希望)」に生きる人たちです。
神の愛の道であるイエス・キリスト
7 愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。8 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。9 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めの献(ささ)げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11 愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。
7~11節は「愛の賛歌」といわれている箇所です。愛の賛歌は、第1コリント書12章31節~13章13節にも見られます。今回の箇所を第1コリント書の愛の賛歌と比べると、第1コリント書は主に人間同士の愛について語っているのに対し、第1ヨハネ書では、愛は神から出ているものであり、そのことを基にして、人間同士が愛し合うことが説かれているように思えます。
ところで、ヨハネ福音書では、「私は〇〇である」というイエス様の言葉が多く見られました。「私は世の光である」「私は命のパンである」「私は良い羊飼いである」などです。いささか不思議に思うことは、これらの中に「私は愛である」という言葉がないことです。最後の晩餐の席で語った「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節)という言葉はありますが、「私は愛である」とは語っていないのです。
なぜヨハネ福音書には、「私は愛である」というイエス様の言葉がないのでしょうか。それは、イエス様が「父なる神様の愛」をこの世で具現する存在だったからではないでしょうか。ですから、第6回でお伝えしたように、イエス様が「私は道である」と言われた「道」とは、神様の愛を伝える道なのです。
9節に「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました」とあるように、イエス様は神様の愛を示す道であったのです。そして、私たちが愛し合うために、十字架にかかって神様の最高の愛を示してくださったのです。だから、私たちも互いに愛し合うように導かれているのです。私たちはイエス様によって神様の愛を知ることができたのです。
見えない神を知る
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされているのです。13 神は私たちにご自分の霊を分け与えてくださいました。これによって、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまってくださることが分かります。14 私たちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
私たちは神様を見ることはできません。しかしここでは、3つの方法において神を知ることができると伝えられています。第1に、私たちが互いに愛し合うことにおいてです。「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内に全うされている」(12節)とされています。隣人が示してくれる日常の何気ない優しさが、滅入った気持ちを和らげてくれることがあります。優しくしてほしいから私たちも隣人に優しくするようにします。そこに神の平和が実現します。
第2に、神様が私たちに与えてくださる霊においてです。パウロは「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」(1コリント書12章3節)と書いていますが、私たちがイエス様を主と告白するという、考えてみれば不思議な道に導かれたのは、私たちに神様の霊、すなわち聖霊が与えられているからに他なりません。
第3に、イエス様が2千年前にゴルゴダで十字架にかかってくださったことを知ることにおいてです。このイエス様の十字架によって、私たちは信仰に生きています。そして、罪の赦(ゆる)しを受けていることを知っているが故に、私たちもまた他者を赦す道を示されているのです。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エフェソ書4章32節)との御言葉に生かされるとき、私たちは神を知ることができます。(続く)
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