「神・キリスト・人間」の関係の図式化
前コラム「ヨハネ福音書を読む」と本コラム「ヨハネ書簡集を読む」の執筆のために、ヨハネ福音書と第2ヨハネ書を精読しました。また、前ローマ教皇ベネディクト16世による回勅『希望による救い』の書評を執筆するに当たり、同書とその前の回勅である『神は愛』を閲読しました。この過程で、それぞれの内容から、父なる神とイエス・キリストの様態、そしてそれらに対する人間の在り方について、聖書はそれぞれを3つの項目で捉えており、それらは図式化できることに気付かされました。それは以下のようになります。
聖書、特に旧約聖書は、神の愛と義(正しさ)を強調しています。それを申命記的に言うならば、「祝福と呪い」となるでしょうか。神の愛が特に強調されているのはホセア書だと思います。そしてもう一つ、神の永遠性も、コヘレト書やイザヤ書などで顕著に示されています。
一方、ヨハネ福音書では、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(14章6節)というイエス様の言葉が伝えられています。道は「愛の道」と捉えるとしっくりします。真理は、神の義と結び付くと思います。この神の義において、独り子であるイエス様は十字架につけられたのですが、それが真理なのです。そして命は、限りのない命を意味するゾーエーであり、神の永遠性と結び付くでしょう。
他方、新約聖書は、特にパウロは「信仰・愛・希望」(第1テサロニケ書1章3節他)という3つを強調しています。これらは「対神徳」と呼ばれ、神に対する人間側の最も大切な倫理徳だとされています。信仰とは「イエス・キリストの十字架の真理を通して神に義とされる」ことであり、愛とは「イエス・キリストの道を通して神の愛を知り、その愛を隣人と共有する」ことでしょう。また希望とは、永遠の命に対するものであり、それは「イエス・キリストの復活の命を通して神の永遠にあずかる」と表現することができると思います。
こうしたことを、冒頭で述べたヨハネ福音書、第2ヨハネ書、前教皇ベネディクト16世の回勅から示され、上記のような図式ができるのではないかと考えたのです。この見方が神学的に適切であるかどうかは別として、このように図式化すると、今後第1ヨハネ書を読んでいくに当たって有用ではないかと思わされました。そのため、今回のコラム執筆に先立って、このことをお伝えしておきたいと考えました。
それでは、今回取り上げる第1ヨハネ書1章5~10節を読んでいきたいと思います。
神は光
5 私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
第1ヨハネ書は、4節までが序文で、5節から本文になっています。そしてそれは「神は光」だという宣言をもって始まります。光である神とは、上記図式の「愛・義・永遠」という神の様態の全てを包含するものだと思います。「神の光とは、神の愛・義・永遠である」と言い換えられると思います。
イエス様は、「私は世の光である。私に従うものは闇の中を歩まず、(永遠である神の)命の光を持つ」(ヨハネ福音書8章12節)と言われました。言い換えるならば、「私に従う者は、神の光を持つ。私はそのために神から遣わされた光なのである」ということでありましょう。そして、そのイエス様の光とは、上記図式における「道・真理・命」なのです。
ここに「愛・義・永遠」と「道・真理・命」の並行性を見ることができると思います。そして、これらは両者とも「光」なのです。
真理を行う
6 神と交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、私たちは偽りを述べているのであり、真理を行ってはいません。7 しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
5節については、神の側から発せられる光としてお伝えしましたが、6節以下には、その光の内を歩むべき私たち人間の在り方が述べられています。そして、光の中でも、神の義(正しさ)と、イエス様が言われた「私は真理である」における真理の内に私たちが歩むべきことが示されています。
それは、端的に「十字架の内を歩むこと」です。そしてそれが、教会の交わりの中でなされるようにと促されています。それが、7節の「互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」が意味していることでしょう。
パウロの「信仰義認」につながること
8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。9 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、あらゆる不正から清めてくださいます。10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません。
さらにこの手紙は、「自分に罪がない」と言う者たちの内には真理はないと続きます。この言葉は、パウロが書いている「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです」(ローマ書3章20節)をほうふつとさせます。ファリサイ派の人々や律法の専門家は、「私たちは律法を守っているのだから、義とされている。つまり罪はない」と主張していたわけです。
しかしパウロは、自分が過去に持っていたものでもあるその主張を否定して、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(ガラテヤ書2章16節、新共同訳)としています。これは「信仰義認」と呼ばれているものです。
第1ヨハネ書も、「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます」としています。復活されたイエス様は弟子たちに向かって、「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(ヨハネ福音書20章22節)と言われました。これは教会共同体において、イエス・キリストの十字架と復活による赦しの秘跡が行われるようになったことを意味しているでしょう。ヨハネ共同体においては、それがなされていたと思われます。
プロテスタント教会においては、この赦しの秘跡は行われませんが、各自が「イエス・キリストの真理である十字架を通して罪の告白をし、神に義としていただく」ということがなされていると思います。また、教会においては、牧師の説教によって罪の赦しが宣言されます。牧師が直接にその宣言をしていなくても、聖書の福音が語られているところでは、赦しの宣言がなされていると考えてよいと思います。
ここまで述べてきたことをまとめますと、「義なる神の前で、十字架の真理を通して、信仰によって義とされる」ということがいえそうです。それは、冒頭で示した図式においては、「神の【義】、イエス・キリストの【真理】、私たちの【信仰】」という中央の縦の線に一致するのです。本コラムは今後、この図式を活用しながら、今回お伝えした「義・真理・信仰」に加えて、「神の愛」「道を伝わる愛」「隣人愛」「永遠の命」「希望」といったことを説明していきたいと思います。(続く)
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