集中構造になっている第2ヨハネ書
第2ヨハネ書は、集中構造になっているようです(『新版 総説新約聖書』小林稔著「ヨハネの手紙2」405ページ)。小林氏の分析を基にして、以下にその構造を示します。(集中構造については「コヘレト書を読む」の第9回参照)。
今回は、上記の集中構造分析の中核(X)である7~8節を読みます。ここはまさに、この手紙の中心メッセージということができるでしょう。
反キリストの偽預言者たち
7 なぜなら、人を惑わす者が大勢世に出て行ったからです。彼らは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しません。こういう者は人を惑わす者であり、反キリストです。8 よく気をつけて、私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
前回は、上記の集中構造分析でCに当たる5~6節を読みました。そこには、ヨハネ共同体における「初めからの戒めにとどまる」べきことが記されていました。今回は、反キリストである偽預言者たちに関する部分を読みます。このつながりは、第1ヨハネ書2章7~17節の、やはり「初めからの戒めにとどまる」という内容から、2章18節以下の反キリストの内容へとつながっていることと酷似しています。
つまり、この短い第2ヨハネ書は、少し長めの第1ヨハネ書の要約版とみることができるのです。前回、「第2ヨハネ書は第1ヨハネ書の前書きに当たる添付書状と考えられるので、本コラムでは、第2ヨハネ書→第1ヨハネ書→第3ヨハネ書の順で読んでいきます」とお伝えしました。まず前書きであり、要約版である第2ヨハネ書を読み、その構造と内容を理解してから、本論である第1ヨハネ書に進むならば、それを読むためにも有用だといえるでしょう。
ただ、一点注意しておくべきことがあります。それは、ヨハネ福音書では、イエス様復活後のヨハネ共同体において、ユダヤ人たちと対立があったことが示唆されているのに対して(「ヨハネ福音書を読む」第34回・第35回参照)、ヨハネ書簡集では、キリスト教内部の偽預言者たちとの対立が伝えられていることです。それが何を意味しているかについては、おいおい考えていきたいと思います。
ところで、初代教会の時代には、福音宣教者(エフェソ書4章11節)といわれる巡回宣教者がいました(「パウロとフィレモンとオネシモ」第3回・第4回参照)。その時代、教会は家の教会であり、そこに定住している牧者(同)がいて宣教活動を行っていました。第2ヨハネ書においては、定住する牧者は「選ばれた婦人」(1節)であったのでしょう。そして、定住する牧者たちがいたのと同時に、教会から教会へと巡回して宣教する福音宣教者といわれる人たちがいたのです。「パウロとフィレモンとオネシモ」では、アルキポを福音宣教者と特定しましたが、使徒パウロもその一人であったのでしょう。
そのような巡回宣教者として、ヨハネ共同体から、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しない人たちが出ていったというのです。ヨハネ福音書1章14節に、「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った」とあります。これは、このことがヨハネ共同体における大事な信仰告白であったことを意味しています。
その信仰告白に反し、それを告白せずに人を惑わす者たちが巡回宣教者の中にいて、教会間を行き来していると警告しているのが、この手紙なのです。手紙の書き手である「長老」は、私たちには初めから持っていた「互いに愛し合いなさい」という戒めがあるのだから、彼らには注意しなさいということを、この手紙において「選ばれた婦人」と呼ばれる人が牧会する教会に宛てて書いているのです。
問題視されている巡回宣教者たちは、イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白していません。それは、イエス様が十字架上で命(プシュケーという限りある命)を捨てることによって私たちを愛され、それ故に「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたことを否定していることになります。手紙の書き手である長老は、それ故に彼らを「反キリスト」と言っています。
そして、「私たちが働いて得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」と書いています。これは、イエス様が言われた「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉をほうふつとさせるものです(ハンス・ヨーゼーフ・クラウク著『EKK新約聖書注解XXIII/2 ヨハネの第二、第三の手紙』82ページ)。
反キリストの人たちの教えは、朽ちて失われる食べ物のようなものでしたが、イエス様の教えは、朽ちない永遠の命に至る食べ物であり、それはイエス様の「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉です。この手紙であれば、5節の「私たちが初めから持っていた戒め、つまり、互いに愛し合うということ」を実践することでしょう。
この手紙を読む私たちも、そうすることによって、「豊かな報い」を受けることができるのです。(続く)
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