汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタイ12:43〜45)
私たちがキリストに出会って、御霊を息吹かれると新生することはすでに学んできました。新生すると、私たちは神の子どもとしての特権が与えられ始めます。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)
私たちはまず、霊についての基本を理解する必要があります。聖書には、神の霊、御使いの霊、そして人の霊と、3つの霊が記されています。
霊格の最上位は、万物の支配者であり創造主である神の霊です。次に御使いの霊、そして人の霊となります。御使いの3分の1は堕天使となり、悪魔・悪霊としてこの地上を支配しています。ですから、この世の流れに沿った生き方をしていると、人間は堕落してしまうのです。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1〜3)
キリストに出会わない人々は、まさしくこういう状況の中にあります。空中の権威を持つ支配者は悪魔・悪霊たちですから、その支配者に従って歩んでいるので良い生き方ができないのです。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――(エペソ2:4、5)
一方でキリストに出会った人は、神の豊かなあわれみにより、良い生き方ができない状態から救い出されました。私たちは、このことにおいて神に感謝します。
救われたことによって、冒頭の聖句のように「汚れた霊が人から出て行」きました。それまでその人を惑わし、支配していた霊がキリストの救いによって出て行ったのです。なぜ出て行ったのかといえば、次の聖句です。
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(同6節)
キリストと出会ったとき、それまでのすべての罪が取り除かれ、悪霊は追い出されます。そして、私たちの体は地上にいながらにして霊はキリストとともに天に座らされ、神の御霊を息吹かれます。目では見えませんが、霊の世界では実にすごいことが起こっているのです。
この恵みのわざについては、一人一人が調べ続けなければならない、大切な神の奥義です。
神に救われた私たちはキリストにより、このような奇跡が起きています。そして注意しなければならないのは、その人の後の歩み方によって、信仰の成長度合いも違い、受ける恵みもそれぞれ違ってしまうという事実です。
後に汚れた霊は、「水のない地をさまよいながら休み場を捜します」とありますが、ここで言っている「水」とはみことばを指します。休み場が見つからなかった汚れた霊は「出て来た自分の家に帰ってみよう」と思い、実際に帰ってみると、きれいに片付いています。
なぜならその人は、自分の罪を十字架の前で告白し、悔い改め、イエス・キリストの十字架と流された血潮によって罪が贖(あがな)われ、赦(ゆる)されて、さらにきよめられて義とされている状態だからです。
ところが主が注意を促しているこのケースでは、救われた後に神の子に必要なみことばの乳を飲まなかったようです。そうなると、水のない地となり、神のことばによって成長することができず、悪に打ち勝つための特権が行使できません。
それを知るやいなや、7つの悪い霊を連れて来てその人に住みつき、以前の状態よりも悪くします。つまり、キリストに出会ったときよりも、さらに悪くなってしまうと言っているのです。
イエスは、このことによく注意するようにと諭しを与えてくださいました。邪悪なこの時代もまた、同じようになると注意を促しているわけです。
キリストに出会った人は、聖書からみことばを学ばなければ神のみこころは分かりません。神の子として、これからどういう生活をしていけばいいのかも分からないでしょう。
万一、キリストに出会う前の生活に戻ってしまったら、それは非常に大変なことになります。なぜならそこから救い出されたわけですから、以前と同じような価値観で生活をすることは自滅を促します。悪魔の支配から移され、神の支配に新生したからです。
例えばパチンコやその他の遊興にはまっていた人が、神に出会った後に再びその生活に戻ってしまえば、倫理的にも道徳的にも正しい生活ではないと分かっていますから余計に苦しむことになります。アルコール依存や間違った性的欲求、愛し合わない人間関係、自分さえ良ければいいという利己的競争社会・・・こうした世の中の倫理・道徳的に間違った滅びの道から、救い出されたからです。
そして何よりも重要なのは、私たちを愛によって造ってくださった聖なる神を愛さない状態からの救出です。私たちは神に、創り主の愛のもとに帰ることができたのです。この恵みにより、聖なる神に似た者とされるのです。
ですから、遊興、中毒、好色、不品行、利己的野心などにより人間性を破壊してきた悪霊たちから救われた私たちは、二度とそのような罠にかかることのないように注意し、神の知恵に頼ることが必要です。
みことばに親しめば親しむほど、救われた自身の状態に目が開かれ、その人の信仰が行動とともに成長していきます。しかしながら、「盗み、殺し、滅ぼす」ためだけに地上に存在している悪魔・悪霊たちは、神の子どもたちを完全に滅ぼそうとして立ち向かってくるということも覚えておく必要があります。
「自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て」とありますが、7というのは完全数です。悪魔・悪霊たちは完全なる戦いを挑んでくるのです。
しかしご安心ください。主イエスは、すでにみことばによって完全に勝利されて、御父なる神とともに天の高いところにおられます。その後、御父は神の子の特権を私たちに与えてくださいました。そして私たちが行使できる最強の武器とは、神の御子を信じる信仰であり、その信仰は「みことば」と「御霊」、そして「主イエスの御名」によります。この3つは最高の武器となり、私たち神の子を勝利へと導きます。
次の聖句でも「御霊の与える剣」はみことばだと記されています。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:17)
神の武具の中でも攻撃に使うのはみことばの剣しかありません。あとはすべて防具になります。福音も神のことばによるのです。
では、みことばの剣を悪魔に対してどのように用いるのでしょうか。具体的な実践例をイエスから学びましょう。
さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4:1〜11)
このように最高の信仰の模範者である主イエスが、試みる者である悪魔と戦いました。この戦いは肉体的なものではなく、思いとことばによる目に見えない霊的な戦いです。目に見えないものが目に見える世界を支配しているということは、すでに「信仰」の章で学びました。
さて、ここには3つの戦いが記されているので、見ていきながら悟りましょう。まず押さえておきたいのは、人は肉体、霊、たましいでできているということです。肉体を生かすためには飲食をし、霊とたましいを生かすためには神のことばが必要です。
悪魔は目に見えるところを支配していますので、地上のあらゆる間違った欲求で人を惑わし、破滅に導いています。しかし神は、次のように約束してくださいました。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
一つ目の戦いで、悪魔は神のことばよりも先に肉体の欲求を満足させようと試みました。それに対して、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と神のみことばを第一に優先して生きるべきであると主はおっしゃっています。つまり、健全な心(霊)とたましいによって肉体を支配するように諭されているのです。
私たちは、本来神に似せられて造られたものです。ですから、私たちが新生したのは聖書から神の正義と愛を学んで生きるためです。これは、非常に重要なアイデンティティーとなります。
さて、ここで注目したいのは、この後に続く計3回のバトルにおいて、イエスはすべて申命記という旧約聖書の中から引用して、悪魔に勝利していることを覚えてください。今の時代、キリストに出会った人で新約聖書だけを読んでいる人がいるかもしれませんが、このことからも新約聖書だけでは不十分であることを理解して、聖書の66巻全巻から学びましょう。
次に、悪魔はイエスを聖なる神殿の頂に立たせて言います。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」。そして、なんと悪魔も聖書のことばを引用してきます。「『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」と。
しかし、この引用の仕方は曲解です。要するにみことばの意味を曲げて解いているのです。なぜなら悪魔には真理がないので、真実は語れないからです。ですから、みことばを曲げて惑わすことはサタンの策略の中でも常套手段の一つです。
こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(2コリント11:13〜15)
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(2ペテロ3:16)
これは非常に注意しなければならないところです。聖書の読み方が曲げられて伝えられています。このことによって、どれだけの教会が、牧師と聖徒が苦しんでいるでしょうか。
では、具体的にはどうしたらよいのでしょうか。聖書の読み方を曲解しないためには、2つの方法が有効です。一つは、御霊によって聖書を読むということです。
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(1コリント2:12、13)
御霊によって御霊のことばを解く。つまり御霊にお祈りをして聖書を読むことです。「知恵と啓示の御霊によって聖書を教えてください」という姿勢で読むのです。
そして2つ目に、油注ぎを受けている働き人から学ぶことです。
あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。・・・あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(1ヨハネ2:20、27)
このように油注ぎを受けた働き人に学びながら、同じ油注ぎを受けることがとても重要です。この油は、主イエスが下さる油です。私たちは主イエスに心を向ける以外、他に道はないのです。
私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。(2コリント1:21)
私たちに油を注がれる方はキリストです。悪魔はみことばを曲解させようとしてくるので、御霊によってよく学ぶことです。イエスは「あなたの主を試みてはならない」と言ってこれを排除しました。まことの知恵が勝利したところです。
創世の初めも、アダムはエバに神のことばを伝えていましたが、悪魔の狡猾な舌にだまされてしまいました。ですから、みことばをよく理解するというのは、私たちの信仰には欠かせないのです。
次に悪魔はこの世のすべての国々とその栄華を見せて、「私を拝むならこれを全部あなたにあげます」と言っています。
この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。(ルカ4:6、7)
つまり、この世はすべて悪魔の支配下にあるとはっきり言っているわけです。先ほどエペソ2章のみことばでも学んだ通り、空中の権威を持つ支配者なのです。そして、ここでは悪魔の性質がよく表れています。人々に拝まれたい、拝されたいのです。
日本だけでなく世界を見ても、まことの神以外を拝している人がどれほどいるでしょうか。それは自分の欲望を満たすためで、まことの神への礼拝ではありません。キリストに出会っていても、そのような神々を拝しているなら神の子どもとしての生涯を全うできません。
イエスは言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」。このあと悪魔は敗北してイエスを離れていきました。悪魔は堕落した御使いのリーダーですが、イエスは人として神の子として勝利されました!
このバトルの中で、悪魔がイエスに何と言っているかをよく見てください。「あなたが神の子なら」と二度言っています。そして、あなたも神の子なのです!
私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(1ヨハネ3:1〜8)
ここで「アーメン!」と言って主に栄光をお返ししましょう。「そして悪魔は離れていき、『見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた』」。なぜでしょうか。その答えは詩篇103篇にあります。
主は天にその王座を堅く立て、
その王国はすべてを統べ治める。
主をほめたたえよ。御使いたちよ。
みことばの声に聞き従い、
みことばを行う力ある勇士たちよ。(詩篇103:19、20)
まことの御使いは神のみことばにのみ仕え、神のみことばを力をもって行います。まことの御使いと堕落した御使いとの戦いは、神のことばと世のことばによって行われているのです。
このような霊的啓示が開かれた人は幸いです。その人が神の子として神のことばを語るときに、すべてが勝利に導かれるからです。
私たちの模範者である神の子の初めの人であるイエスが父のみことばを聞いて地上で勝利したように、今度は私たちが主イエスのみことばを聞いて勝利していくのです。私たち神の子が聖書のみことばを適切に語るとき、御使いが遣わされるのです。
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。(ヘブル1:14)
天の父も、イエスの言うことを聞くように私たちに命じられています。
すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。(ルカ9:35)
彼の言うことを聞きなさい。イエスがこの地上におられたときに、モーセとエリヤが現れてイエスとミーティングをされました。それを見ていた3人の弟子たち、ペテロとヨハネとヤコブに天の父が告げられたのです。私たちも神の家族ですから、この父のみことばを継承していきます。
また、イエスが地上において語ったことばに関して、ご自身がこう言われています。
そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:16)
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。(ヨハネ12:49)
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:10、11)
このように、教えについてもことばについてもわざについても、全部父から教えられ、与えられたものであると言っています。私たちも神の子イエスを模範として、聖書から日々しっかりと学び、みことばの水が泉となって自身からあふれ出る神の子となり、主に栄光をお返しして生涯を全うしたいものです。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)
私たちは水のあふれる潤された地となるのです。
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【書籍紹介】
奥田英男著『祝福を受ける人のBibleノート』 2016年11月1日初版、ミリオン・スマイル、定価1800円(税別)
神に出会ったのになぜかうまくいかない・・・。そう思われているクリスチャンの方は意外と多いのではないでしょうか。
イエス・キリストを主と受け入れた後、私たちはどのように信仰生活を歩めばよいのでしょうか。
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よろこび研究会とは
真理はあなたを自由にします。(ヨハネ8:32)
みことばカレンダーに基づき決められた聖書箇所を読み、
主から語られたことや体験を参加者一人ひとりが分かち合う。
メッセンジャーは聖霊の導きに従い、
ライブで主からのメッセージを取り次ぐ。
みことばの泉にひたり、
聖霊のよろこびに満たされ解放を受ける、
「新しい皮袋な人たち」のための
たましいを救いに至らせる礼拝とバイブルスタディ。
「よろこび研究会」では、下記をテーマとして、真理のことばで“よろこび”をお届けしています。
1. 聖書のみことばを分かりやすく
2. 日常生活に適用できるように
3. より実践できるように
主イエスに出逢ったにもかかわらず、その後“よろこび”がない方。
聖書の読み方が分からず、読んでいても“よろこび”がない方。
メッセンジャーや教役者なのに、メッセージ作りに追われて“よろこび”がない方。
「私のこと?」と思った方は、ぜひご参加ください。
真理はあなたを自由にし、あふれる“よろこび”で満たしてくれます。
「よろこび研究会」についての詳細はこちら。
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