ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(新約聖書・ルカによる福音書18章18~22節)
子どもだからこそできたこと
私の経験を幾つか紹介したいと思います。私が子どもの頃、私の田舎では、正月などに鶏を絞めて雑煮などにしていました。鶏がさばかれる様子をワクワクしながら横で見ていたものです。
また、ダンゴムシとワラジムシの区別がつかなかったとき、なぜ、ワラジムシが丸くならないのか不思議になり、ワラジムシを指で強制的に丸くしようと頑張ったことがあります。ワラジムシにすればとんでもないことで、どうしても丸くならず、数匹をつぶしてしまったことを覚えています。そして、黒くてピカピカして、背中がこんもりしているのがダンゴムシ、艶がなく灰色で平べったいのがワラジムシだということに初めて気が付きました。
それから、父が自慢げに持っていた世界時計の秒針が飛行機のマークだったのですが、透明度の高いプラスティック板に描かれた飛行機のマークがどうして浮かんでいるか分からず、手を突っ込んでむしり取ってしまったこともありました。
こうした子どもが持つ「無邪気な邪悪さ」は、時代をさかのぼるほど残酷だったり、とんでもなかったりするもので、若い頃、父の少年時代の話を聞いて驚いたものでした。カエルの尻に麦わらを指差し込み、息を吹き込んで腹を膨らませ、そのまま池に放しパチンコで狙い撃ったり、トンボのしっぽを切って飛べるかどうか確かめてみたり、いろいろしでかしていたそうです。
「子どもらしさ」とは何か
マーク・トウェイン作の『トム・ソーヤーの冒険』や、続編の『ハックルベリー・フィンの冒険』を読むと、もっとすさまじいことがいろいろと書いてあります。主人公のトム・ソーヤーや、彼の親友ハックルベリー・フィンは10歳くらいの設定ですが、いわゆる「悪ガキ」という表現がピッタリです。
しかし、『ハックルベリー・フィンの冒険』についていえば、児童文学の域を越え、米国文学史にとって重要な価値を持つ作品と考えられているわけですから、少し驚きます。実際、アーネスト・ヘミングウェイは以下のように絶賛しています。
あらゆる現代米国文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』と呼ばれる一冊に由来する。・・・全ての米国の作家が、この作品に由来する。この作品以前に、米国文学と米国の作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない。
子どもは本来、格好をつけ、尊大になりたがります。アンパンマンをはじめとするヒーローを好きなのも、そういう憧れの具体化です。毎回やられるバイキンマンや悪役の姿を楽しみにしています。父親などに、「アンパンチ!」とやっている姿はよく見かける光景です。
生きているから子どもらしさがある
第4回で「死人テスト」を紹介しました。死人テストは、「死人でもできることは指示とは言わない」という考え方であることを書きましたが、このことは、実は大変な事実をはらんでいます。それは、「子どもは並べて死人テストに耐えられない」ということです。逆に言えば、「じっとしていられず、騒ぎ、走り回り、いたずらをするのが子どもだ」ということです。このことは、とても大切なことです。少し意地悪く言えば、「子どもは子ども故に邪悪な側面を持つ」ということです。
保育の潔癖化
残念なことに、子どもには「無垢で無邪気だからこその邪悪さ」が備わっているのです。そして、それに保育士や親はしっかりと向き合わなければならないのです。障害のある子や、弱い子をからかったり、いじめたりするのは、そんな「無垢で無邪気だからこその邪悪さ」に遠因するのです。
大人は、子どもに対して「邪悪さ」を否定します。子どもは大人の言うことを素直に聞くべきであり、大人の願いを体現すべきであり、純真で無垢な存在であらねばならないと考えてしまいます。結果、大人の都合のみが優先され、子どもが持つ「無垢で無邪気」な部分のみを維持しようと躍起になることがしばしば見られます。
しかし、それは多くの場合、自分の子どもの頃の「後悔」や「否定」が遠因になっているものです。子どもと向き合うことは、自分の子どもの頃と向き合うことであることを忘れてしまうと、保育は途端に潔癖化します。例えば、自分が迷惑をかけられたくないと思えば、先行して子どもの「問題行動」を制御しようとします。
保育の潔癖化は大人の都合
心理学者の樋口和彦氏の講演を聞いたことがあります。その講演会は特殊で、参加者はほとんどが保育施設の園長で、また彼らの多くが樋口氏から児童心理学や教育原理を習った人たちでした。質疑応答で、「園児が落ち着かない、言うことを聞かないのはどうしてなのか。こういう気になる子をどうしたらいいのか」という質問が出たときの樋口氏の回答は痛快でした。
「私はここにいるほとんどの人たちの講義を受け持ったけど、君たちだって講義中は落ち着かないし、言うことは聞かないし、寝てるし、まあ、君たち全員、今風に言えば『気になる学生』だったね。私はその時どうすればよかったと思う?」
まさに「ぐうの音も出ない」とはこのことでした。
しかし、子どもたちの無邪気な行為がある意味「無害」なものであれば、笑い話で済むかもしれませんが、世の中には無害なものばかりではありません。何の気無しに、ただ興味からやってしまったことが、とんでもない結果を生むこともあります。世界時計の秒針を私がむしり取ってしまったときの父の落胆は今でも覚えています。こういう「被害」を少なくすることは、育てる方と育てられる方それぞれの負担を軽くします。
「無邪気さという罪」から子どもを守る
子どもには「子どもだから」という免罪符があることは、良くも悪くもみなさんご存じの通りです。しかし、この免罪符があらゆる年月齢で同じく機能するわけではないこともご存じでしょう。その一方で、この免罪符をどの年月齢まで機能させるべきかは、あまり明確には意識されていないように感じます。
この点、動物ははっきりしているようです。わが家の飼い猫は、私の子どもたちに対してその年月齢に応じて付き合い方を変えてきました。子どもたちが3歳くらいまでは、何をされてもじっと耐え、耐えきれなくなると逃げていきました。この時期までは、「子どもだから」という免罪符に免じて、赦(ゆる)してくれていたわけです。
しかし、だんだん子どもたちが大きくなるにつれ、威嚇したり、爪は出さないもののたたいたりするようになりました。子どもたちがもっと成長すると、怒ったときには引っかいたり、噛み付いたりという感じです。
つまり、「子どもだから」という理由で赦されるのは定められた期間に限られるということです。また逆に、だからこそこの免罪符を使える期間に、無邪気な行為を精いっぱい体験させなければならないということでもあるのです。(続く)
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