さて、みなさんは本連載でこれまでに、ギリシャ語文法全体の約3分の1を勉強されてきました。いかがでしたでしょうか。ギリシャ文字、もうヒントなしに読めるようになりましたでしょうか。私たちは、最初はギリシャ文字にカタカナ表記およびラテン文字(ローマ字)による翻字を記してきましたが、第6回からは翻字のみ、そして、第15回からは、そういった発音のヒントなしにギリシャ語をギリシャ文字で書いてきました。今回は、その翻字そして似ている概念である転写について、また当時のギリシャ語の発音について見てみたいと思います。
翻字と転写はよく同じように使われますが、実は、言語学では、翻字(transliteration)と転写(transcription)は別の概念です。翻字とは、文字Aを文字Bで置き換えるときに、1対1で完全に置き換えることができるようにすることです。この場合、文字Bで置き換えた後も、文字Aと文字Bの対応を用いれば、文字Aの元のテキストを完全に復元できます。このように翻字は、文字Bに置換しても文字Aに自動的に戻れ(可逆性があり)、文字Aと文字Bが一対一で対応します。
これに対して転写は、文字Aと文字Bは一対一で対応していなくても大丈夫です。これは日本語をローマ字で書き表すときに用いられます。例えば、「柿」と「牡蠣」なら、両方ともローマ字では kaki ですが、kaki から元の文字に戻すときは、「柿」なのか「牡蠣」なのか、それとも「夏季」なのか分かりませんよね。
本連載で使っていたラテン文字による表記は、転写ではなく、翻字です。これは以下のように対応しており、翻字で書いたものは規則的にギリシャ語に復元ができます(表1)。
表1:本連載で用いているギリシャ語翻字の一覧
σ, ς の2つに s が対応していますが、σ は語末以外、ς は語末なので、この規則から、その位置を見れば、元のテキストではどちらの形であったのか分かり、正しく復元できます。また、気息記号は、h で置き換えます。気息音の th, ph, ch 二重子音の ps, ks は、ギリシャ語1文字に翻字2文字で対応していますが、これらの組み合わせを2つのギリシャ文字で書くことは通常はないので、この翻字が成り立っています。
これに対して、ラテン語を用いてきた西欧州では、発音に基づいたラテン文字による転写が用いられてきました。
例えば、
- εὐαγγέλιον・・・evangelion(これに対して翻字は euaggélion)
- ἄγγελος・・・angelos(これに対して翻字は ággelos)
のように転写されます。γγ は[ŋg]の発音ですので、この転写では、発音に合わせて ng で転写されます。しかし、発音に基づくとはいうものの、これではギリシャ語のつづりとはだいぶ異なり、ギリシャ語の知識のない初学者には分かりにくいので、聖書ギリシャ語の教科書などでは、このラテン語式の転写と上記の翻字の折衷のような形式が採られることがあります。
その折衷転写法では、υἱός は、hyios とつづられるなど、伝統的なラテン語におけるギリシャ語転写と同じですが、εὐαγγέλιον は euaggelion とつづられるなど、ギリシャ語のつづりの翻字に近くなっています。この方法では、ου は ū もしくは u で、υ は y で、αυ は au で書き分けられます。これは、ου がウの長母音ウー(国際音声記号〔IPA〕では[uː])、υ 単体 がイの口でウを言うようなユに聞こえる発音(IPAでは[y])、αυ がアウ(IPAでは[au̯])であるため書き分けられています。このように、特にこの折衷転写法では母音の書き分けが複雑になります。しかしこれは、この母音の書き分けもある時代のギリシャ語にある程度基づいたものです。それは、紀元前5~3世紀、学術・文化が最盛期であったアテネを中心とするアッティカ地方の母音の発音です。
ギリシャ語の発音の再建を行っているジェフリー・ホロックス(Geoffrey Horrocks)の『Greek: A History of the Language and its Speakers』(Wiley-Blackwell、2nd ed.、2010)によれば、その時代のギリシャ語の母音の発音は次の通りです(表2)。この発音は、比較的、ギリシャ文字をそのまま読んだ発音に近いですが、子音の前または語末の ει がイー、その他の ει がエーだったり、エータとイオタまたは下付きイオタの組み合わせがイーという発音だったりと、学校で習う古代ギリシャ語の発音とは異なります。また、彼は音素(phoneme)としており、実際の音声は少し違っていた可能性がありますが、別つづりで同じ音素がある場合は、同じ発音であることは確実です。大学や神学校で習う古典ギリシャ語や聖書ギリシャ語の発音は、エラスムス式の発音といわれ、西欧近代で広まったものですが、これについては、また別の回で詳しく説明します。
表2:紀元前3世紀・高位変種(Horrocks 2010:166)
これが、紀元前2世紀までには次のように変わります。この時代、エジプトにはギリシャ人王権であるプトレマイオス朝が栄えており、エジプトからのパピルス文献、オストラカ文献が大量に見つかっています。長母音が短母音となり、幾つかの二重母音は、短母音になっています。ει/-V は母音の前での ει の発音、ει/-C or # は語末か子音の前での ει の発音ということです。そして、e̝ はイに近い狭いエです。
表3:紀元前2世紀(Horrocks 2010:167)
現代の新約聖書本文批判にとって重要なアレクサンドリア型と呼ばれる写本が幾つか生み出された紀元後4世紀の発音は次のように再建されています。
表4:ローマ帝国期末期・ビザンツ帝国期初期エジプト(Horrocks 2010:167)
この時代にはイオタでおわる二重母音が短母音になって、多数のつづりが一緒の発音になっています。また、υ で終わる二重母音だったもので、υ の発音が f か v の子音になっています。この時代になると、かなり現代ギリシャ語の発音に近づいていきます(現代ギリシャ語の発音は第12回~第14回を参照)。
表3と表4のギリシャ語の発音はコイネーのものです。コイネーとは、紀元前334年に始まったアレクサンドロス大王の東征以後、エジプトからインド北西部にかけてギリシャ系の王朝が盛衰し、大王の部下であるプトレマイオス将軍が興したエジプトのプトレマイオス朝の首都アレクサンドリアを中心に栄えた、ギリシャ文化を基盤としながらも、さまざまな文化が混じったコスモポリタンな文化の中で共通語化してきたギリシャ語です。
新約聖書ギリシャ語もこのコイネーの一種です。この当時のギリシャ語の資料としては、特に上エジプトから出土されるパピルス文献およびオストラカ文献の量が圧倒的です。これは、上エジプトが大変乾燥した気候であるからです。これに対して、下エジプトはナイル川のデルタ地帯であり、湿潤な気候であるため、特にパピルス文献は腐食してしまっていて上エジプトに比べ出土しにくいです。
これらパピルスやオストラカの文献には、当時の口語を反映したメモや手紙などがあり、つづりが正書法とは異なる場合がよくあります。母音字の書き間違いが多い場合、当時の発音がつづりから乖離していたことが考えられます。間違えるパターンをまとめたり他の文字での表記など傍証を集めたりすることで、当時の発音が再建できるのです。このようなパピルスやオストラカの文献は、Papyri.info でデジタル化されているものを見ることができます。このような新約聖書ギリシャ語の当時の発音の詳細は、またコラムの形で紹介致します。(続く)
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宮川創(みやがわ・そう)
1989年神戸市生まれ。独ゲッティンゲン大学にドイツ学術振興会によって設立された共同研究センター1136「古代から中世および古典イスラム期にかけての地中海圏とその周辺の文化における教育と宗教」の研究員。コプト語を含むエジプト語、ギリシャ語など、古代の東地中海世界の言語と文献が専門領域。ゲッティンゲン大学エジプト学コプト学専修博士後期課程および京都大学文学研究科言語学専修在籍。元・日本学術振興会特別研究員(DC1)。京都大学文学研究科言語学専修博士前期課程卒業。北海道大学文学部言語・文学コース卒業。「コプト・エジプト語サイード方言における母音体系と母音字の重複の音価:白修道院長・アトリペのシェヌーテによる『第六カノン』の写本をもとに」『言語記述論集』第9号など、論文多数。
福田耕佑(ふくだ・こうすけ)
1990年愛媛県生まれ。現在、テッサロニキ・アリストテリオ大学訪問研究員。専門は後ビザンツから現代にかけての神学を含むギリシャ文学および思想史。特にニコス・カザンザキスの思想とギリシャ歴史記述とナショナリズムに関する研究が中心である。学部時代は京都大学文学部西洋近世哲学史科でスピノザの哲学とヘブライ語を学んだ。主な論文に「ニコス・カザンザキスの形而上学と正教神学試論 ―『禁欲』を中心に―」(東方キリスト教世界研究〔1〕2017年)、またギリシア語での主な論文に "Ο Καζαντζάκης και ελληνικότητα(カザンザキスとギリシア性)"、"Ο Νίκος Καζαντζάκης απω-ανατολική ματιά(カザンザキス、極東のまなざし)"(2019年)など。