米クリスチャンポスト(CP)は25日、米オハイオ州コロンバスにあるアドベント・ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライスト主任牧師のスーザン・スミス氏が、米ワシントン・ポストへの最近の寄稿の中でこの疑問に対する見解を記述したことを報じた。寄稿の中で同氏は「キリスト者である」ということを検証し、どれだけのキリスト者、あるいは宗教者が神のしもべとしての道から逸れてしまっているか、どれだけのキリスト者がカダフィ大佐の死に対し、その人物の独裁政権による残虐行為にもかかわらずひとつの命が失われたことに対する同情を示すことができているだろうかと問いかけている。
スミス氏は「宗教的な人間は本来神様が私たちをもてなすのと同じような方法で人々をもてなさなければいけませんが、そのような道から逸れてしまっているのではないかと懸念しています。オサマ・ビンラディンが殺害された時と同様に、カダフィ大佐が殺害されたことで、同人物による世界でのテロの蔓延はこれ以上行われないということでは安堵感を感じますが、同人物が死亡したからといって、腐敗した指導者すべてが滅亡するというわけでもありません。神様との関係性よりも自分が権力を得ることを重要視する人々がいる限り、そのような腐敗した指導者がなくなることはないでしょう。私自身は、カダフィ大佐が銃撃を受け、殺されたという事実自体に対して『喜ぶ』ということはできません。このようなことで喜んでいる日々は神様にとっては喜ばれる日々ではないでしょう」と述べている。
オンライン上でも多くのキリスト者らがカダフィ大佐の死について、リビアでの長年の圧制に終焉を遂げるものとなったとして喜びのメッセージを投稿している。一方でカダフィ大佐がたとえどんな恐ろしい人物であるとしたとしても、他人の命を奪い取るという行為は許されるべきものではないといった意見も見られている。
カダフィ大佐の死についてフェイスブックではクリスチャンユーザーらから、「カダフィ大佐による圧制が消え去ったことを喜ぶとしても、永遠に失われてしまった魂については決して喜ぶことはできないだろう」「神様はいかなる人間の死をも喜ばれない。それならば私たちも同様に喜ぶべきではない。カダフィ大佐のご家族のために祈りましょう。彼らの命が保たれている限り、主に立ち返り悔い改める機会があるのですから」などの意見が述べられている。またカダフィ大佐の圧制で長年苦しんできたリビア国民の間からも同様の議論が聞かれている。
カダフィ大佐の遺体は、同大佐の四男のムアタシム氏の遺体とともに、死亡から5日が経過した25日早朝に、リビア国内砂漠地帯の墓地に秘密裏に埋葬された。