織田信長の治世、ローマに派遣された天正少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲル。その墓とみられる石碑(長崎県諫早〔いさはや〕市)の発掘調査を行った民間の実行委員会(会長・立石暁長崎総合科学大理事長)は12日、「出土した骨や歯が女性のものの可能性が高い」と、専門家による鑑定結果を明らかにした。石碑にはミゲル夫妻とみられる戒名と没年月日などが刻まれていることから、実行委は「ほぼ同時期に亡くなったミゲルの妻のものではないか」と考えている。
発掘調査は8月から9月にかけて行われ、人の骨や歯が石碑の土台下にあった空洞から発見された。実行委に鑑定を依頼された分部(わけべ)哲秋・長崎医療技術専門学校長(形質人類学)によると、骨は1人のもので、上下のあごと左耳付近の側頭部、大腿骨、すねの一部と確認された。歯は24本(上顎13本、下顎11本)で、歯の形状や大きさ、摩耗具合などから、25~45歳の中年女性と推定した。
骨や歯と一緒に、「ロザリオ」(カトリックの祈りの時に使う数珠状の道具)とみられる直径2~5ミリの穴あきのガラス玉なども発見されたが、その59個のうち5個は鉛ガラス、それ以外の玉と半円形のガラス片はソーダ石灰ガラスと分析された。
今回は石碑の右側の空洞が発掘されたが、地下レーダー探査により、その左隣に別の空洞が見つかっている。石碑には右に「自性院妙信霊」という女性の戒名が記され、左に「本性院常安霊」とあることから、左側の空洞にミゲルが埋葬されている可能性があるとして、実行委は今後の調査が必要と訴えた。
4人の少年使節の中でミゲルはただ1人、キリスト教信仰を捨てたとされてきたが、キリシタンだったことを示す副葬品が出てきたこの墓がミゲル夫妻のものだとすれば、その通説は覆されることになる。
千々石ミゲル(1569頃~1633年?)は、日本初のキリシタン大名大村純忠のおい(父親が純忠の兄)。11歳の頃、洗礼を受けて「ミゲル」(ポルトガル語で天使ミカエル)の洗礼名を名乗り、同年、神学校「有馬セミナリヨ」で学び始めた。
1582年、信長の治世でキリシタンが優遇される中、巡察師ヴァリニャーノが日本宣教の成果を直接伝えるためローマに使節を送ることを提案。九州のキリシタン大名、大友宗麟や大村純忠、有馬晴信の名代(みょうだい)として、セミナリヨで学ぶ者の中から4人の少年が選ばれた。伊東マンショ(主席正使)、千々石ミゲル(正使)、原マルチノ(副使)、中浦ジュリアン(副使)である。
しかし、出国した年に本能寺の変で信長が没すると、豊臣秀吉が天下を取り、1587年、大村純忠と大友宗麟が相次いで死去した直後にはバテレン追放令を出すなど、日本のキリシタンを取り巻く状況は激変していた。そんな中にある90年、ミゲルら4人は帰国したのである。
その後、ミゲルらは天草に戻ってコレジオ(高等神学教育機関)で勉学を続け、93年には共にイエズス会に入会した。しかし、1601〜03年の間(04年以降、名簿から削除されている)にミゲルはイエズス会を脱会し、名前も千々石清左衛門と改めている。
これまで、その晩年は謎に包まれていた。そのミゲルの生涯に新たな光を当てたのが、ミゲルの石碑を発見し、調査を続けてきた大石一久さん(大浦天主堂キリシタン博物館副館長)だ。ミゲルは棄教していなかったと考えた大石さんは、ミゲルの行動を詳細に追った。そして2015年、その研究成果を著書『天正遣欧使節 千々石ミゲル―鬼の子と呼ばれた男』(長崎文献社)としてまとめ、「ミゲルは修道会からは脱会したが、信仰そのものを捨てたわけではなかった」という説を打ち出した。
――大石さんはカトリックの信者ですか。
私は仏教徒(禅宗)です。ただ、所属宗教と歴史学という科学的研究とはまったく別物と考えています。
――千々石ミゲルが棄教したという通説を覆す調査を続けられている理由は何ですか。
棄教したという通説を覆すために研究してるわけではありません。それは結果論です。十数年前、『千々石ミゲルの墓石発見』という本を書いた際、これまでの棄教説では説明できない部分があり、そこを調べていくうちに、ミゲルの棄教に疑問を持ちました。と同時に、これまでのキリシタン史研究の在り方にも疑問を持ちました。
――千々石ミゲルはどんな信仰者だったと思われますか。
イエズス会をはじめ、当時のヨーロッパ修道会によるインカルチュレーション(文化受容)の精神を欠いた布教の在り方に真摯(しんし)に疑問を抱いた人物だったと考えています。つまりミゲルは、「宗教の普遍性はいかにして民衆のものになるのか」を絶えず問い続けた人物だと考えています。
――今回の調査に至るまでのご苦労、そして今後のことを教えてください。
卑近な話ですが、いかに発掘費用を捻出するかにありました。ただ、周囲の皆さんのご理解で、予想以上の募金が集まり、また実行委員会の皆さんの熱意に感謝しています。今回の第3次発掘調査で出土した墓壙(ぼこう)はミゲルの妻(後妻)のものと考えており、ミゲル本人の墓壙はその左側にあるものと考えています。実際、レーダー探査でも反応があり、また今回の発掘調査で出土した礫(れき)の広がりから、左側にもう1つの墓壙がある可能性が高まってきました。そのため、次年度に発掘を実施するか、現在、模索中です。
――この墓がミゲルのものであり、キリシタンとしての副葬品があれば通説は覆ります。この墓がミゲルのものとする論拠は。
伊木力墓所がミゲル夫妻の墓であること示す資料は、墓碑自体に刻まれた銘文などの情報が最大で最高の資料であり、発掘に伴う遺物はあくまでも補強資料です。この伊木力墓所をミゲル夫妻墓所と特定した理由については、2005年に発刊した拙著『千々石ミゲルの墓石発見』で詳細に述べています。7つの条件(「千々石玄蕃により墓石を建塔されるべき夫妻」「墓所伊木力」「法華宗(日蓮宗)」「朝長・淺田氏との関係」「自證寺との関係」「没年寛永9年」「戒名(自性院妙信・本住院常安)」)を満たす夫妻は、千々石ミゲル夫妻(清左衛門夫妻)しか存在しないことから特定しました。「ミゲルはイエズス会は脱会したけれど棄教はしていなかった」という点は、今回の墓壙(妻)からキリシタン遺物のみが出土したことから、ほぼ裏付けられたと考えています。次年度以降にミゲル本人の墓壙と思われる部分を掘り、そこから何が出るのか分かりませんが、期待しているところです。
――最後に、読者にメッセージをお願いします。
「宗教の普遍性はいかにして民衆のものになるのか」という問いをぜひ考えてほしいと思います。ミゲルの人生は、どんなバッシングにも負けずに、最後まで信仰の本質を追い求めた人物だと考えています。そこには組織を超えて宗教の本質に迫ろうとする人間としての在り方が強く示唆されています。宗教に絡んだ世界規模でのテロ事件や紛争が毎日のごとく報道されていますが、この時代こそ宗教が持つ限りない本来のエネルギーに立ち返るべきではないでしょうか。