京王線調布駅から北に15分ほど歩いた閑静な住宅街に、サレジオ会調布修道院はある。広大な敷地には、カトリック調布教会や「チマッティ資料館」(サレジオ会の日本布教の先駆者、ヴィンセンティオ・チマッティ神父を記念したもの)も建っている。
きれいに手入れされた庭の一画に、ひっそりと墓碑が佇んでいた。映画「沈黙」の中で、フェレイラ神父を追って日本に潜入し、自身も転びバテレンとなったロドリゴ神父のモデル、ジュゼッペ・キアラ神父(1603~85)の墓碑だ。昨年1月には、調布市の有形文化財(歴史資料)に指定されている。
高さ160センチもある墓碑の上部は司祭帽のような形になっているが、その中央には「入専浄眞信士霊位」と戒名が刻まれている。殉教ではなく切支丹屋敷(江戸小石川にあったバテレンらの禁固所)で83歳で亡くなり、このように戒名までもらったキアラ神父は、本当に信仰を捨ててしまったのだろうか。チマッティ資料館の館長を務めるガエタノ・コンプリ神父に話を聞いた。
この墓碑は、第二次世界大戦中の1943年、キリシタン研究家であったクロドヴェオ・タシナリ神父が東京・雑司ヶ谷霊園で見つけ、所有者の許可を得てここに移された。保存状態が良いことから、現在も多くの見物客があり、特に映画「沈黙」が公開されてからは、多い時で1日数十人がこの墓碑を見に訪れるという。
1603年、イタリア・シチリア島の小さな村で生まれたキアラ神父は、20歳のころ、イエズス会に入った。
やがて1633年、次のようなニュースが伝えられ、欧州全土に衝撃が走る。「イエズス会日本管区長代理クリストヴァン・フェレイラ神父が拷問に耐えられず、長崎で棄教した・・・」
それをにわかには信じがたいものとし、またイエズス会の汚名をそそぎ、彼の信仰を取り戻させるために、イエズス会士らが殉教覚悟で日本にやって来た。その中の1人がキアラ神父である。
キアラ神父らは1643年に玄界灘にある大島に潜入したが、全員が幕府に捕らえられ、長崎奉行所へ送られた。その数カ月後には江戸に移送され、ここでフェレイラ神父と再会する。
フェレイラ神父は幕府の手下となり、キリシタンたちがどのようにしたら精神的なダメージを受けるかなど、入れ知恵をしていたとされる。
「殉教者は英雄視され、ますますキリシタンたちの信仰は堅固になる。むしろジワジワと精神的に責めて棄教させた方が、キリシタンたちへの信仰的な打撃が大きい。そうアドバイスしたのもフェレイラ神父ではないかと言われている」とコンプリ神父。
この時、数人の外国人がフェレイラ神父とバテレンたちが対話しているのを聞いていたとされ、後にイエズス会本部にそれを報告し、当時の模様を示した絵画も残っている。
フェレイラ神父と対話した後、穴吊りにあった神父たちは次々と「転ぶ」こととなり、ついにキアラ神父も3日後に手をあげて「転んだ」。
1646年、キアラ神父らは切支丹屋敷に幽閉される。それから時を経た74年、奉行の求めに応じてキリスト教の教理などを説明した書(現存しない)を著した。その内容がうかがえる当時の文献から、キアラ神父は実は信仰を捨てていなかったとも伝えられている。
コンプリ神父は昨年、イタリア・シチリア島に巡礼の旅で訪れ、キアラ神父が洗礼を受けたとされる地で追悼ミサを行った。「おそらく、400年以上の時を経て初めての追悼ミサではないだろうか」と話す。
ミサが終わると、その教会の主任司祭が殉教姿のキアラ神父の肖像画(本記事冒頭の画像)を持ってきた。「キアラ神父は切支丹屋敷で病死していますが、イタリアには殉教として伝えられたようです。史実とは違うものの、キアラ神父の面影を知ることができて感動した」とコンプリ神父は言う。
キアラ神父についての話を一通り聞き終えた後、「もしあなたが400年前の日本に潜伏していたら、どうしたと思いますか」と尋ねてみた。コンプリ神父はしばらく沈黙した後、こう話した。
「そのことを何度も繰り返し考えている。しかし、『殉教』とは、イエス様がそうしたように、ある意味、大きな証しだと思う。自分も、信仰を貫き、殉教できる者でありたい。どんな時でも神様を信頼する者でありたい」
「やはり、棄教は罪ですか」
「神様は棄教する人間の弱さも全部知っている。棄教したバテレンたちのことも憐れんでくださっていることと信じている。日本は、遠藤周作が考えるような、信仰の根を腐らせるような『沼地』なんかではない。日本人のキリシタンたちが殉教をもって守り抜いた信仰は何よりも強い。しっかりと根が生えていると思う」
キリシタンの歴史は、世界的に見ても、非常に特異なものがあるようだ。命懸けで海を渡り、信仰の種を植えた宣教師たち。それを必死で守ったキリシタンたち。彼らの信仰を今こそわれわれは見習うべきではないだろうか。