1901(明治34)年9月19日。東京本郷にある三菱初代社長岩崎弥太郎の長男久弥(ひさや)の屋敷は、喜びに包まれていた。長女が産声を上げたのである。今まで男の子ばかり授かってきたので、家の者の喜びはひとしおであった。赤ん坊は真っ赤な顔をし、大きな声で泣いていた。
(どう見てもこの子は男の子だわ)母の寧子(やすこ)は内心そう思った。
やがて、赤ん坊の命名の日が来た。この日は祝いの宴が設けられ、あやからせたいと思う人の腕に抱かれて赤ん坊が宴席に現れるというのが岩崎家のしきたりになっていた。さて、その赤ん坊の登場となると、これはどうした手違いか、赤ん坊を抱いて現れたのは、当時人気のあった力士、横綱梅ヶ谷だった。
皆あっと言ったきり、声も出なかった。名づけ親は3代目の社長弥之助で、彼は子どもに美喜(みき)という名を授けた。
美喜は3歳の誕生日を過ぎた頃から、だんだん男まさりの力を出し始めた。親戚の家に行くと、大切にしている金魚を手の中につかんで握りつぶしてしまったり、犬を使ってチャンバラごっこをするうちに、その犬の前足を折ってしまったりした。
「頼むから、もう美喜をつれて来ないで」。どこに行ってもこう言われ、母は赤面するのだった。そのうち、妹の澄子(すみこ)が生まれた。澄子は姉と違っておとなしい子だったので、母は何かと気にかけ、けんかをするといつも叱られるのは美喜のほうだった。美喜はくやしくて、妹の手を引っ張ったり、こづいたりして泣かせてしまい、またしても叱られた。
「澄子じゃ相手にならないからつまらないなあ。男の子と遊ぼうっと」。彼女は3人の兄や従兄の仲間に入れてもらうことにした。彼らが柔道や剣道のけいこに行くと、一緒に行ってまとわりつき、自分もやると言って聞かなかった。先生は、仕方なく彼女に柔道着を着せて、けいこ台にした。
「何も抵抗しないで、自然に投げられればいいんだよ」。先生がこう言うので、その通りに美喜は、フワリ、フワリと投げられていた。そのうち、ただ投げられるだけでは面白くないので、「投げられ賃」としておやつを兄たちから取ることにした。すると、兄たちは相談し合って、おやつを少ししか分けなくなった。
「ようし。兄ちゃんたちがズルをするなら、こっちにも考えがあるから」。美喜は仕返しの機会を狙っていた。
岩崎家の別荘は大磯にあり、よく家族は利用した。特に夏休みになると、子どもたちは海水浴や野球をして遊ぶのだった。ある時、従兄の木内信胤(のぶたね)が柔道の腕前を見せたがって、美喜を「投げられ役」にし、海岸に大勢の人を集めた。
この時とばかり、彼女は「投げられ役」をよそおって彼に近づくと、「えい、やあーっ」とばかり彼を投げ飛ばしてしまった。信胤は悔しがって何度もかかっていったが、美喜はそのたびに勝ち続けた。兄たちは、返す言葉がなかった。
(やっぱりあいつは、女梅ヶ谷だよ)(生まれたときに力士に抱かれていたものな)
彼らがひそひそ話す声を聞いても、美喜は知らん顔をしてもう1度従兄に近づくと、最後の力を振り絞って、彼を海水浴のお茶屋の前に投げ飛ばした。どすーんとその体は店の看板にぶつかり、弾みでそれを引き倒した上、彼はのれんの破れ目に顔を突っ込んでしまった。
「すごいなあ」。ひと言も物が言えず、兄たちは従兄を引き起こして引き揚げた。
またしても母の寧子はため息をついたが、父の久弥は笑って目を細めていた。彼は、時々子どもたちを厳しく叱りつけたが、その後で必ずこう言い聞かせるのだった。
「人間のけだかさは物やお金のあるなしじゃない。心の持ち方にあるんだよ。だから、どんなことになろうとも、卑しい人間になるな」
この言葉には、真実味が溢れていたので、子どもたちは抵抗することができなかった。
もう1人、美喜をかわいがってくれたのは、祖母の喜勢だった。美喜がひどいいたずらをして家から閉め出されてしまったときも、こっそり父母にとりなしてくれたのもこの祖母だし、おやつを取り上げられてしょんぼりしている彼女に、こっそりお菓子を2つ、3つ持ってきてくれたのも彼女だった。
ある日、祖母は美喜をつれて大磯の別荘に行き、蚕が桑の葉を食べるさまを見せた。「ごらん、こんな小さな体をして何てよく働くんだろう。虫でありながら偉いと思わないかい? 人間もね、いくらお金持ちになっても働くことを忘れちゃいけないよ」。彼女はこのように諭したのであった。
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<あとがき>
今月からいよいよ混血児の母と呼ばれた澤田美喜の生涯の連載が始まります。まずはやんちゃで男まさりの女の子がいきなり登場するので驚かれたことでしょう? 彼女は、三菱財閥である岩崎家の令嬢で、今で言えばセレブの家庭に育った子どもだったのです。
しかし彼女は、皆からちやほやされても、決して傲慢(ごうまん)になることはありませんでした。それは、彼女をとりまく岩崎家の人々が、皆仁義を重んじる、道徳的にも修練のできた者ばかりだったからと思われます。
父親の久弥は、いつもこう言って子どもたちを諭しました。「人間のけだかさは、お金のあるなしじゃない。心の持ち方なのだよ」
また、祖母の喜勢も、こう教えたのでした。「人間はいくらお金持ちになっても、働くことを忘れちゃいけないよ」
こういう人たちに育てられた美喜の人生には、初めから1本の筋金が入っていたと言えましょう。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。