第45代米国大統領、ドナルド・トランプ氏が誕生した21日に、日本では遠藤周作原作の映画「沈黙-サイレンス-」が全国ロードショー公開された。その両方を体験した筆者は、頭の中を大いに刺激されっぱなしである。特に「沈黙」は、いろんな切り口から語ろうと思ったらどれだけでも語れるくらい、コンテンツが脳内を駆け巡っている。
朝一番に劇場に足を運んだが、ほぼ満席であり、しかも年齢層はかなり高め。2時間40分強という長尺の上映時間ということもあり、かなりの覚悟を要する作品であることは間違いない。それでもこれだけ各方面から「今度『沈黙』ってやるでしょ。これ、クリスチャンが見ても大丈夫なんですか?」と同じ質問をされると、やはり何か回答しないといけないかな、という気分にさせられた。そこで、今回は映画「沈黙」を早速レポートし、さらに2つの観点からまとめてみた。
(1)クリスチャンにとって、「沈黙」はどんな意味を持つのか?(映画と小説共に)
(2)ノンクリスチャンにとって、「沈黙」はどんな意味を持つのか?(映画と小説共に)
今回は、その第1の観点について述べさせていただく。
遠藤周作が1966年に発表した『沈黙』は、端的に言うとポルトガルからの宣教師が日本にやって来て、最後に棄教するというお話。これだけ聞くと、クリスチャンが見ても決していい気分になる話ではない。ましてこれが実在の司教で、棄教した彼が、キリスト教がいかに矛盾した宗教かというテーマで幾つも著書を残しているというのだから、そんな男の話など聞くに値しない、と決めつけてしまうのも無理はない。
しかし、原作を読めば分かることだが、事はそんなに単純ではない。私は原作を一種のミステリー小説として読んだ(実は高校時代に一度読んでいたが、その時は上述したような単純な負け犬物語としてしか読めなかった)。「なぜ数十年も日本のために尽くした司祭が棄教したのか?」「それは彼が堕落したということか、それともやむにやまれぬ理由があったのか?」。その謎が解明されるとき、私たちは果たして彼の決断を非難できるだろうか。
ある見方として、ここに描かれているのは「教理としてのキリスト教」と「実践としてのキリスト教」の相克(そうこく)である。カトリックでは特にそうだが、古代教会以来、「殉教」はクリスチャンにとって最高の美徳とされてきた。イエスの弟子たちもその後を受けた使徒教父たちも、最後はキリストに倣って自分も迫害の中で命を奪われることをある種「最高の名誉」と受け止めていた。
そういった教義が金科玉条となり、日本にもキリスト教伝来当初から教えられてきていた。しかし、断っておきたいのは、17世紀ヨーロッパのカトリック上層部に、そのような「殉教」を遂げた者は皆無だったということである。某ヒット映画の名セリフではないが「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」ということである。
加えて、切支丹たちはこの苦しみに耐えて殉教するなら、たちどころに天国へ行けると信じていた。だがこれはカトリック教義からすると誤りである。そんなにすんなりと天国へ行けるのは、いわゆる「聖人」と呼ばれるごく一部の者であり、ほとんどの凡人は煉獄でその魂の汚れを焼き尽くされなければ天国へは入れないのだ。
話がズレるが、だからルターの時代に、サン・ピエトロ寺院の改修費を一定額以上納めた人は煉獄を通らずに天国へ行けるとうたった免罪符が、飛ぶように売れたのである。
映画の中で、小松菜奈演じる村の娘が司祭に問い掛ける。「私たちは、今は苦しんでいるけど、それを抜けるとパレイゾ(天国)なんですよね? そこでは苦しみも、年貢もないんですよね?」と。それに対し、教義に忠実であろうとした司祭(スターウォーズでカイロ・レン役を演じたアダム・ドライバー)は、「それは間違っている」と告げようとする。しかし、主人公側の司祭(スパイダーマンシリーズ主人公を演じたアンドリュー・ガーフィールド)は、「それでいい。あなたは死後にパラダイスに行ける」と強く言い含める。
ここに教義を前面に打ち出すキリスト教(決してカトリックだけでない)の矛盾が端的に露呈している。熱心であればあるほど、市井の人々は何も知らされないままカトリック教会の教義と機構を守るべく、殉教を強いられる。名もなき人々にとっては精いっぱいの信仰表明であるが、その行為は神に届けられるためではなく、ヨーロッパのカトリシズム教義を守る「人柱」として消費される運命を担わされたと言ってもいい。
先に棄教したとされるフェレイラ神父は、そのことを若い司祭に告げる。「そこに真の信仰があるのか?」と。それよりも、無益な苦しみを強いる私たち宣教師こそ、真の信仰者として行動すべきではないのか。「今まで誰もしなかった一番つらい愛の行為をするのだ」と。この辺りは映画よりも小説の方が際立っているように思われた。「教理としてのキリスト教」を捨てる決心をした司祭は、踏み絵を踏む。そして彼は「実践としてのキリスト教」を生きる決心をする。
「実践としてのキリスト教」はむしろ小難しい教義に押し込められない、行動を伴った愛、慈しみ、憐れみを具現化することになる。愛を解きながら愛さないなら、それは偽りとなる。良き知らせとして福音宣教に携わっておきながら、それ故に人々を苦しめ、死にまで至らしめているとしたら、それは本当に彼ら(日本人)にとって良き知らせと言えるのか。
教理的なキリスト教を否定し、実践を優先するとき、「教義を破る」すなわち「棄教する」ことが求められるようになる。すると逆説的になるが、教え込まれた教義を捨てることこそ、(キリスト教ではなく)「キリストの教え」を真に実践することになる。愛について説くことではなく、愛を実践するとき、説教や概念を伝達することは無意味となる。
最後に棄教した主人公がキチジローに赦(ゆる)しを与える。それは本来カトリック教会に叙任された者のみが与えることのできる「秘跡」である。しかし、物語において、真に赦しを与えられたのは、皮肉なことに彼が司祭でなくなった後のことだったのである。
そして、有名な声なき声が主人公に届けられる。「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの地に来たのだから」。彼の中に1つの解釈(本人にとっての真実)が開示される。「神は沈黙していたのではない。私たちと共に苦しんでいたのだ」ということである。
そういう意味で、主人公は「宣教師」という肩書を捨て去る(棄教する)ことで、真にキリストの福音を伝える、否、福音を生きる者となることができたのである。
次回は、(2)のノンクリスチャンにとって、「沈黙」はどんな意味を持つのかについて考えてみたい。(続きはこちら>>)
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