カトリック教会の聖職者による性的虐待を調査報道した米国東部のボストン・グローブ紙の記者たちの姿を描き、今年のアカデミー賞を受賞、日本でも大きな注目を集める中、ようやく今週公開となった本作。劇場で見た結論からいうと、見て間違いなく損はしない!出来だ。ジャーナリズムにおける調査報道という、重要とはいえ地味な仕事を見事にスリリングで感動的な物語に仕上げている。
2002年1月、ボストン・グローブ紙は、ボストンの70人以上のカトリック教会の神父が過去に信徒の児童に性的虐待を行い、教会が組織ぐるみで隠蔽していたことを報道した。このスクープは世界中の教会にも広がり、教皇ベネディクト16世も事実を認めるが、自身がドイツで大司教を務めていた時代に隠ぺいに関わっていたことを報道され、2013年に異例の生前退位をする理由の一つともなった。
その後2014年までに全米だけで6427人の聖職者が1万7259人の子どもに性的虐待を行った罪に問われることになり、世界中で800人が神父資格をはく奪され、2600人が職務停止処分を受けた。賠償額は26億ドルを超え(2012年時点)、支払いのために破産する教区も発生。現在もその余波は世界の教会を揺るがし続けている。
この映画では、その発端となった数人の記者たちの、地道で果敢な取材の日々が丹念に描かれている。詳しくはぜひ劇場でご覧になっていただきたいと思うが、その上で三つの論点から論じてみたい。
(1)キリスト教が大きな力を持ちながらも多様性が存在する米国社会の縮図
ボストンはハーバード大などがあり、米国東海岸の経済・文化の中心都市として知られているが、新しく赴任した編集局長が就任後、まずは枢機卿にあいさつに訪れる姿が描かれる。そこからはやはり、キリスト教が社会で莫大な影響力を持っていることが分かり、そのスキャンダルを報道するのは大きなタブーだったことを感じる。
一方で新しい報道局長はユダヤ系、取材の中心となるのはポルトガル系の男性と女性記者、訴訟の中核となる弁護士はアルメニア系の人物だ。彼が「なぜこの訴訟ができるか分かるか? 俺がこの町でよそ者だからだ」と語るシーンがある。伝統的なキリスト教徒と白人ではない「周縁的」な人間たちの中からこそ、この訴訟と報道がなされたことが分かり、とても興味深い。そこに、米国の多様性の中からわき出る「健全性」がうかがえる。
(2)ジャーナリズムにおける「調査報道」について
このスクープは、数人の小さな記者チームによる「調査報道」の金字塔だが、それには膨大な資料の調査と地道な裏取り取材が求められる。速報性が求められる現代の報道現場では決してコストパフォーマンスがいい業務ではない。そして今、ジャーナリズムの現場では「調査報道」の存在が危機にひんしている。
米国と日本では新聞記者のキャリアや採用もキャリアパスも全く異なる。日本の新聞社では大学生を「新卒」として一括採用し、地方支局での勤務を経て「政治部」「社会部」などに配属されるが、米国ではほとんどの場合、まずは全国の地方紙で記者としてのキャリアをスタートする(「ボストン・グローブ」もその一つで、部数は2002年時点で46万部)。
そもそも全国紙と言える新聞がほぼ存在しない(経済紙「WSJ=ウォールストリート・ジャーナル」の他は「USAトゥデイ」[発行部数は約200万部]程度で、いずれも日本の全国紙より規模はずっと小さい)。地方紙で実績を磨き、より大きな新聞社に転職し、最終的な目標として目指すのが、「NYT(ニューヨーク・タイムズ)」「ワシントン・ポスト」、あるいは「ニューズ・ウィーク」「TIME」の二大誌“だった”。
これらは、発行部数は200~300万部程度だが、国境を越えた重みと影響力を持ち、そこで働くのがジャーナリストの目標であり最高のキャリアパス“だった”のだ。
過去形で書くのは、インターネットメディアの伸びによって米国では報道機関の経営悪化が激しく、「ニューズ・ウィーク」は累積赤字が膨らみ2010年には1ドルで売却され、影響力とクオリティーの凋落(ちょうらく)は著しい。
NYTも2006年には4半期決算で6・5億ドルの赤字となり、倒産の危機が伝えられた。地方紙の多くも倒産の危機に見舞われている(ボストン・グローブ紙も販売部数が減少し、親会社のNYTは2013年に売却した)。
時間とコストがかかる「調査報道」はもはや困難になり、地域情報の報道や政治権力の監視機能が低下し、米国のジャーナリズムは大きな危機を迎えているといわれている。しかし一方で、市民からの寄付をもとにしたNPO報道機関も数多く誕生し、近年は毎年ピュリッツァー賞を受賞するほどの実績を生み出している。
報道方法も変わった。この映画のように数人のチームで紙資料を調べるというレガシィ(伝統的)な「調査報道」から、現在騒がれている「パナマ文書」のように膨大なデジタルデータを、国境を越えたジャーナリスト連合が分析する「データジャーナリズム」が台頭しつつある(パナマ文書はデジタルで約1150万件の文書を、世界80カ国107社の報道機関の400人のジャーナリストが分担し、解析が進められている)。
その意味でこの映画は、ほんの10数年前の出来事でありながらも、どこか「古き良き時代」のレトロでノスタルジックな空気すら漂っているところに、時代の変化の厳しさを感じさせる。とはいえ「調査報道」の存在意義は変わらない。今もまた熱い記者たちがどこかで「伝えるべき事実」を求めて奮闘しているのだろう。日本だってスクープを連発する「週刊文春」が一番元気な「調査報道」を続けている。
(3)日本でも人ごとではない
聖職者による幼児虐待は海外の、カトリックだけの他人ごとではない。日本でも、日本聖公会京都教区で起きたセクシャルハラスメント事案は現在も教会を揺るがせており、日本基督教団熊本白川教会の粟津安和牧師は2003年に事件を起こし、民事で敗訴が確定して賠償を命じられながらも現在まで教会にとどまり、幼稚園園長を務めている。東京ではヨハン早稲田キリスト教会の金圭東牧師が同様の事案で辞任している。これらは氷山の一角で、ネットで検索するだけでも同様の事案は多数見つけることができる。
この原因は、プロテスタント教会の多くが「各個教会主義」であるため、牧師が過剰なカリスマ性を持ったり、問題を起こしても、それに対する健全な抑止力が働かなかったりする点にあるのではないだろうか。
(4)牧師のカリスマ性に潜む危険
私が学んだ関西学院大学神学部では、実践神学の「牧会学」の授業で「牧師の“パワーオーバー”の危険性」が繰り返し強調されていた。米国の多くの神学校では、CPE(クリニカル・パストラル・エデュケーション=臨床牧会学)として、病院のターミナル病棟やHIV病棟で患者さんにチャプレンとして定期的に面接を行い、医師や臨床心理士がスーパーバイザーとして指導する中で「患者」と「牧師」、「信徒」と「牧師」という関係性の中で“支配的な影響力”を及ぼす傾向や危険に陥っていないか、セルフチェックする訓練プログラムが行われる。
日本でも臨床心理士は同様のコースを必ず受け、数年に一度は受講することが推奨されている。しかし、日本の神学校ではCPEプログラムがまだ浸透しておらず、牧師となってからもそのような制度を受ける余裕も必要性もまだあまり理解されていない。その辺りに大きなリスクが存在するのではないかと思わざるを得ない。
こうしたプログラムを神学教育の中に取り入れ、さらにそもそも「不向き」「不適切」な人物には断念するように神学校の教師が指導するということも必要なのではないだろうか? 「神様の導きで」「召命を受けて」という言葉で何かをごまかしてはいないだろうか? 一般社会では、会社や組織の中で他者の人生を深く損なうような深刻なセクシャルハラスメントを行ったならば解雇され、社会的生命を絶たれることもある。
人の最も深いところに素手で触れる「職業的宗教者」に、より高いモラルが求められるのは当然ではないだろうか?と思わざるを得ない。
映画の中で、被害にあった男性が「それでも私はまだ幸運だ。生きているから」という言葉がある。性的虐待によって傷つき命を失った人も多い。その多くはもはや被害を訴えることもできず、被害の数に数えられないことも多いのだろう。牧会者は人を救うこともあるが、殺すこともあるのだと慄然(りつぜん)とする。
だいぶ映画本編から話はずれてしまったが、さまざまなことを考えさせられる。でも、映画としての見どころも多く、さすがはアカデミー賞受賞とうならされる本作。ぜひ1人でも多くの人に見ていただきたいと願う。