日本三大祭りの一つで、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている祇園祭が京都で始まり、さまざまな行事が今月末まで行われる。そのハイライトの一つが、各町が所蔵している山や鉾(ほこ)と呼ばれる山車やみこしが市内を巡行する山鉾(やまぼこ)巡行だ。重さ約7トン、高さは屋根まで約8メートル、周りは毛綴(けつづれ)など豪華な装飾品で飾られ、40人以上が綱で引き市内を巡行する。
1000年以上の歴史があるこの祇園祭に、聖書と関係するものが大事な役割を果たしているといったら意外だろうか? 山鉾の一つ、京都市下京区の函谷鉾(かんこぼこ)町に伝わる函谷鉾の前懸(まえかけ)に使われている16世紀ベルギー製のタペストリー(毛綴)には、旧約聖書の創世記24章に記されている「イサクの結婚」の物語が描かれている。江戸時代に九州・平戸から日本に入ってきたもので、約300年の歴史があるという。函谷鉾町の会所を訪ね、貴重な実物を拝見させていただいた。
普段は大切に保管されているが、祇園祭の最中は会所の2階に飾られている。山鉾巡行には、精密に復元・新調されたものが使われるそうだ。
このタペストリーは、16世紀末にベルギーで作られたゴブラン織りといわれるもので、大きさは縦272・5センチ×横220センチ。国の重要文化財に指定されている。
年を取ったアブラハムは、息子イサクの嫁を迎えたいと思い、老僕エリエゼル(創世記15:2)を、ナホルの町に派遣する。夕方、町外れの井戸の傍らで、老僕は、「どうか、水がめを傾けて、飲ませてください」と頼んだとき、「どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」と答えてくれる娘がいたら、彼女こそイサクの嫁とさせてください、と祈る。すると、そこに水がめを持ったリベカがやってきて、先ほど祈った通りとなる。老僕は、金の鼻輪と、金の腕輪二つをリベカに渡して、神に感謝し、イサクの元に連れ帰り、二人は結婚する。
タペストリーの中央には、エリエザルがリベカから水を飲ませてもらう場面が大きく描かれている。また、右上には馬に乗ったイサクが、下半分には、エリエザルがリベカに腕輪を贈っている様子と、イサクとリベカが婚約する場面が描かれている。背景には自然の風物や町、女たちの様子が、細密で優雅な織りで再現されており、思わず見とれてしまう。
このタペストリーは1718年、函谷鉾町に居住していた沼津宇右衛門が鉾に掛けるようにと寄贈。それから毎年、祇園祭で使われ続けてきた。しかし資料によるとその歴史はさらに古いそうだ。寛永10年(1633年)に、交易のため九州・平戸に渡ってきたオランダの商館長ニコラス・クーケバッケルが、平戸藩松浦氏を通じて3代将軍徳川家光へ献上した目録の中に「オランダ産 絨毯壱枚 レベッカの物語入り」と記載があることから、この時に日本に入ってきたと考えられる。そしてその後、どのような経緯を経てかは不明だが、沼津氏が入手し、現在に至るという。
ちなみに鎖国とキリシタン禁令下の江戸時代、この図柄が何を意味するかは理解されていなかったという。『山鉾由来記』(1757年)には、「前氈 天竺物綴織。もよう天竺人立ち上がり酒宴、拳などする体、水瓶馬等のたぐひ、其外樹木山岳甚多し」と書かれ、『増補祇園霊会細記』(1815年)では、「前がけまくは天竺織という。西域の人物甚見事なり。天竺よりもまた外国のものならむ」とあるという。『祇園会懸装図鑑』(1909年)には「大小の人物、遠近の樹石、屋合の配合等数百年前、泰西の風俗を眼前に看るがのごとく、図様の細心製織の苦辛、染整の湊合等、頗る神妙に入る。実に稀世の珍品と謂うべし」と書かれている。「大きな壺よりお水を飲んでいる様子は有り得ない、多分お酒を酌み交わしているのだろう、とすればお祭りには最適の図柄だ」と思われ、華々しく鉾に飾り巡行に使われたともいわれているそうだ。
祇園祭は、貞観11年(869年)、都をはじめ国々に疫病が流行し、人々はこれを牛頭天王のたたりとして恐れたため、当時の国の数と同じ66本の鉾を立てて祭りを行い、みこしを神泉苑に送って疫病のたたりをはらおうとしたのが始まりといわれている。気が遠くなるような長い歴史を持つ祇園祭のとき、人々はこの図柄を見ながら何を思い、感じてきたのだろうか。
ちなみに、他の町の鉾には、ギリシャ神話の「イーリアス」物語を描いた毛綴(霰天神山)や、トロイ戦争の一場面を描いた毛綴(白楽天山)などもあるそうだ。
12日は、組み上がった山鉾を初めて引く「山鉾曳(ひ)き初(ぞ)め」と呼ばれる行事があり、多くの若者が山鉾に乗り込み、にぎわっていた。これから17日の前祭(さきまつり)山鉾巡行以降、このタペストリーで飾られた山鉾が市内を練り歩く姿を見ることができる。京都の伝統の祭りと聖書物語の不思議なコラボレーションを見に、足を伸ばされてはいかがだろうか。