重い容体のために入院されていると伝えられている、カトリック教会のフランシスコ教皇のためにお祈り申し上げます。さて今回は、第1ヨハネ書5章6~21節を読みます。
霊と水と血
6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです。7 証しするのは三者で、8 霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。
この個所を読んで連想するのは、ヨハネ福音書19章34節の「しかし、兵士の一人が槍(やり)でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」です。コラム「ヨハネ福音書を読む」の第68回において、この場合、血は死を意味し、水は命(永遠の命であるゾーエー)を意味することをお伝えしました。
イエス様の十字架上の死は、神様の人間への愛を意味しています。「私は道である」と言われたイエス様は、ご自身の十字架において血を流されたことを通して、私たちに神の愛を伝えてくださったのです。そして、この十字架上で血と同時に出た水は、永遠の命の水です。そうしますと、「血と水とが流れ出た」とは、神の愛を伝える道としての働きと、永遠の命の水を与える働きがなされたことを意味する、というのが私の持論です。
このことを踏まえて考えると、第1ヨハネ書のこの箇所で伝えられている水は命を、血は愛を意味することになります。ヨハネ福音書の十字架の場面で流れたのは、血と水だけでした。しかし、第1ヨハネ書のこのくだりでは、「証しするのは三者で、霊と水と血です」と伝えられています。そして、「霊は真理だからです」とも記されています。イエス・キリストの霊は、「神の義を伝える十字架の真理」です。ですから「霊と水と血」とは、「真理と命と(愛を伝える)道」を意味しているのです。
ここで、これまでに何度もお示ししてきた三様態の図をもう一度見ていただきましょう。
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(順番を変えて)「血と霊と水」というのは、イエス・キリストの様態である「道・真理・命」であることが分かります。イエス様が言われた「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)に合致することなのです。
イエス・キリストの様態である「道・真理・命」が、神様の様態である「愛・義・永遠」を証ししているということです。裏を返せば、神様が御子によって「愛・義・永遠」を証ししているということにもなるでしょう。
偶像を吹聴する人たち
9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはなおのことです。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しを持っています。神を信じない人は、神を偽り者にしています。神が御子についてされた証しを信じないからです。
神様が御子によって証しをなさったということは、神様が御子について証しをされ続けていくということでもあるといえましょう。その御子イエス・キリストを信じる人は、自分の内にこの証しを持っていると伝えられています。これは、信じて聖霊の交わりにある者は、三様態の一番下のラインの「愛・信仰・希望(永遠の命)」を持っているということでしょう。
この第1ヨハネ書の背景にある偽預言者たちは、その神様の証しを信じていません。彼らが具体的に何を伝えていたのかは分かりませんが、第2ヨハネ書から通貫して、その存在が念頭に置かれている彼らは、神を偽り者にしていた、つまり「偶像」を人々に吹聴していたのです。
永遠の命
11 この証しとは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったということです。そして、この命は御子の内にあります。12 御子を持つ人は命(ゾーエー)を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません。13 神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。
本コラムの第9回で、「今回から3回にわたって、第1ヨハネ書4~5章を読みます。ここでは、私たちの『愛』と『信仰』と『永遠の命(希望)』が伝えられています」とお伝えしましたが、第9回と第10回は、「愛」と「信仰」についての内容でした。4章以後ではここで初めて、「永遠の命」という言葉が示されます。既に記している水も「永遠の命」のことを指していますが、言葉としてはここで初めて伝えられています。
ここでは「永遠の命=御子イエス・キリスト」となっています。ですから、「神が私たちに永遠の命を与えてくださった」というのは、「御子イエス・キリストが神様から私たちに与えられた」ということです。それは、十字架を通してのものに他なりません。これまで「愛」と「信仰」が語られてきましたが、この2つは十字架によって与えられています。また、それは「愛」と「罪の赦(ゆる)し」と言い換えることもできると思います。
神様は「愛」であり、「義」でもあるお方です。人間を愛して創造してくださいましたが、人間が犯した罪を見逃す方ではない、義なるお方です。けれども、その人間の罪のために御子イエス・キリストが十字架にかかってくださったのです。私たちはこの御子の十字架を持ち(12節)、隣人に対しても「愛されたのだから愛し合う」「赦されたのだから赦し合う」ならば、そこに命(ゾーエー)を持つことができるのです。
そのような歩みが、神様の「霊と水と血」の証しを受け入れるということであり、「道・真理・命」であるイエス様につながることであるといえましょう。
追伸
14 何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。15 私たちは、願い事を何でも聞いてくださると知れば、神に願ったことは、すでにかなえられたと知るのです。
16 もし誰かが、死に至らない罪を犯しているきょうだいを見たら、神に願いなさい。そうすれば、神は死に至らない罪を犯した人に命をお与えになります。しかし、死に至る罪もあります。これについては、願い求めなさいとは言いません。17 不正はすべて罪ですが、死に至らない罪があります。
18 神から生まれた人は誰も罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた人は自分を守り、悪い者がその人に触れることはありません。19 私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。20 しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださったことを知っています。私たちは、真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神であり、永遠の命です。
14~21節は、第1ヨハネ書の追伸に当たる部分であり(ハンス・ヨーゼーフ・クラウク著『EKK新約聖書注解XXIII/1 ヨハネの第一の手紙』465ページ)、21節は独立した最後の結びの言葉であるため、13節までとは少し筆致が変わっています。
14~15節では、祈りは聞き入れられることが、16~17節では、死に至らない罪と死に至る罪についてが、18~20節では、この書の中で念を押しておくべきことが、それぞれ伝えられています。
第1ヨハネ書でまず初めに読み取ってきたことは、「神は愛です」(4章16節)ということであったでしょう。14~15節では、その愛の神様が、私たちの祈りを聞いてくださらないはずがないということを述べています。ヨハネ共同体の人たちもよく祈っていたことでしょう。その祈りの源が、「神は愛です」ということであったことが、ここからうかがえます。
その祈りの中心となるのは、隣人のための祈り、つまり、とりなしの祈りです。第1ヨハネ書では、「神は愛です」と同時に、「互いに愛し合いましょう」(4章7節)ということも示されてきました。「愛し合う」上で具体的に重要なことは、とりなしの祈りをすることであるということでしょう。16節ではそのことが伝えられています。
兄弟が「死に至らない罪」を犯しているならば、とりなしの祈りをしなさいとされています。「『愛』と『罪の赦し』によって命(ゾーエー)を受ける」ということが、この第1ヨハネ書のメッセージでしたが、そこにはとりなしの祈りが必要であるということです。「死に至らない罪」と同時に「死に至る罪」も伝えられていますが、それはこの文書の背景にある偽預言者たちのことを指しているのでしょう。
18~20節は、「(私たちは)知っています」という形で3つのことが伝えられています(前掲書485ページ)。その3つのこととは、①神から生まれた人は誰も罪を犯さないこと、②私たちは神から出た者であり、全世界は悪い者の支配下にあること、③しかし、神の子が来て、真実な方を知る力を私たちに与えてくださり、私たちは、その真実な方である御子イエス・キリストの内にいるのであり、この方こそ、真実の神であり、永遠の命であること、です。
以上3つのことは、第1ヨハネ書の中で伝えられていたことの反復です。①は3章6~9節、②は4章4~6節、③は1章2節の反復であるといってよいでしょう。既に書かれていることを反復することによって、読者に印象付けようとしているように思えます。
結びの言葉
21 子たちよ、偶像から身を守りなさい。
前述したように、21節は独立した結びの言葉です。複数の人たちに宛てた手紙を書いた後、「では皆様お元気で」と書くのと似ていると思います。「子たちよ」は、ヨハネ共同体の人たちを、親しみを持ってこのように呼んでいます。偶像というのは、さまざまな説がありますが、私はそれらの中で、「背景にある偽預言者たちの教え」が妥当であると思います。
彼らの誤った教えから身を守りなさいということです。「では皆様、誤った教えから身を守って歩んでください。お元気で」というあいさつの言葉であると思います。
第1ヨハネ書を振り返って
今回をもって、第1ヨハネ書は終わりにします。振り返って俯瞰(ふかん)すると、この書は「愛」と「真理と信仰」と「永遠の命」について伝えている書であるということが分かります。ヨハネ共同体に伝わっていた「私は(愛を伝える)道であり、真理であり、(永遠の)命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)というイエス様の言葉を、偽りの教えが伝えられているさなかにあっても、生かしていこうとする様が伝わってくるように思えます。
次回から2回にわたって、第3ヨハネ書について執筆する予定です。(続く)
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