前回は、天地創造について読み解く上で重要となるヘブライ語「ヤラド」(生む)について解説しました。今回は、さらに深く学んでいきたいと思います。
「ゲンナオー」(ヤラド)と「ゲノス」(アム)の区別
「生む」を意味するヘブライ語「ヤラド」に相当するギリシャ語「ゲンナオー」(G1080)の定義をレキシコン(古典語辞典)で順々に見ていきましょう。
まず、『ヘルプス・ワード・スタディー』による定義です。
<厳密には>子孫を生む/もうける(生じさせる――増殖させる/再生産する/繁殖させる)、子(ら)を産する; <受動態で>生まれる、「生まれた」
『ストロング・コンコルダンス』の定義は次の通りです。
<ゲノス(G1085)の変異より>もうける(<厳密には>父から、<転じて>母から); <比喩的に>再生させる(産む、生む、生まれる、生じさせる、はらむ、出産する、性別を割り当てる、作る、湧く
ゲンナオーの定義の中の「はらむ」という語の用法に注意してください(「アムH5971/ゲノスG1085」の定義の中には見いだせません)。これは、「ゲノス」という言葉が、その主体がどこから出てどこに至るのか、または、誕生後の生い立ちに一層の重きを置いているということを示しているのかもしれません。「ゲノス」は通常、「人種」「部族」「子孫」「血統」など、個々の人々の集まりや種類を指す名詞です。
一方、「ゲンナオー」(G1080)は、(通常は個人である)その主体がどこから出たのか、つまり、誰がその主体を産んだのかに焦点を当てる動詞です。
次に『セーヤー・ギリシア語辞典』で「ゲンナオー」の用法を見てみましょう。
<ユダヤ的視点で他者を己の人生の道に引き入れる者を指す場合>例:「あなたがたを生んだ(ヒュマス・エゲンネーサ<注>)」(コリント人への手紙第一4章15節)は「私があなたがたキリスト者の人生の作者である」の意。「生んだ(エゲンネーサ)」(ピレモンへの手紙1章10節)――「人が隣人の息子に律法を教えるなら、聖書では『人が人を生んだ』のと同等とみなす」とされ、人を己の人生の道、つまり、己の神への信仰へと回心させることを表します。
<注>「エゲンネーサ」は「ゲンナオー」の活用形の1つ
このセーヤーによる著述では、「ゲンナオー」(G1080)が表す「産む」が肉体的な誕生に限定されるのではなく、霊的な誕生にも用いられるということが強調されています。
用例を見てみましょう。コリント人への手紙第一4章15節の「ゲンナオー」(G1080)も、直接の子孫を意図して使われていることが確認できます。
たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ(ゲンナオーG1080)のです。(コリント人への手紙第一4章15節)
コリントの人々の間には多くの聖職者がいて、人々にとって恩師、指導者、訓練士としての役割を果たしていたことでしょう。しかし、パウロは自らを「人々の直接の霊的な父である」と具体的に述べたのです。だからこそ、ここでは「ゲンナオー」が使われました。
パウロがここで「父」という言葉を使ったのは、主イエス・キリストがそう願っておられるからではないでしょうか。「私たちを御国に連れて行く者」という意味の「マテーテウオー」という言葉がありますが、これは主イエス様によって導入された言葉で、「神の御国へ私たちを実際に導き入れる者」という意味です。
では、『バイン聖書辞典』による「ゲンナオー」の定義を見ましょう。
「生む」「<受動態で>生まれる」は主に男性が子どもたちを「生む」場合に使われる(マタイの福音書1章2〜16節); まれに女性が子どもたちを「産む」場合に使われることがある(ルカの福音書1書13、57節)。
「ヤラドH3205/ゲンナオーG1080」(生む)が使われていると、系図を理解する際に直接の父子関係であることを知る助けとなるかもしれません。それが「血統」に関して使われる際に、先祖たちの関係が直接的であるか間接的であるかを示すことになるためです。一方、「ゲノス」は、その「血統」における承継や継承物/遺産――その子孫、家族、人種、種類、国の成り立ちや所有してきたもの――について知る助けとなるでしょう。
「ゲノス」(G1085)すなわち「アム」(H5971)
「ゲノス」は「種類」「人種」「家族」「血統」を指します。共通の起源、先祖、性質を持つ人々や物事の集まりを表現するのに広く使われる用語です。「ゲノス」は生物学的血統から民族的または社会的な集団まで、さらには生物や種の分類に至るまでさまざまな文脈で使うことができる言葉です。
ここで、創世記10章1節における「ギノマイ」の用法に注意したいと思います。
これはノアの息子、セム、ハム、ヤフェテの歴史である。大洪水の後、彼らに息子たちが生まれた(ヤラドH3205/ギノマイG1096)。(創世記10章1節)
「ギノマイ」の定義は、「なる(実在するようになる)」「続く」「終わる」です。つまり、「なる」「存在するようになる」という意味で、へブル人への手紙4章3節では「成し遂げられた」と訳されています。これは「定められた結末に至る」ことを意味しています。
この場合の「ギノマイ」は「ゲノス」の意味で使われています。
「ギノマイ」(G1096)と「ゲノス」(G1085)の関係
「ギノマイ」の定義は「現れる」「なる」で、ある地点(領域、条件)から次へ移行することを表します。「起こる」「歴史上、姿を表す」「舞台に上がる」という意味です。「ギノマイ」は、ある事柄や人々の集団が何を起源としているか、どのようにして現在の姿になったのかを示す言葉のようです。「ギノマイ」は「ゲノス」の語根/語源に当たる言葉です。
言い換えれば、「ゲノス」(G1085)は「ギノマイ」から派生した単語です。
「ゲノス」は、「ギノマイ」(G1096)――「現れる」「なる」「実在するようになる」「存在するようになる」「ある地点(領域、条件)から次へ移行すること」の意味――から派生した語ですから、ある人々の集団がどこから来たのか(あるいは、存在するようになった状態や条件、つまり、どこから出た誰の子孫なのか)を示唆する言葉として使われているのは当然のことでしょう。誰が元祖(先祖)であるとか、何世代も続く家系の上位にある特定の先祖から出た子孫であるとか、さまざまな情報を伝えているのです。
「ギノマイ」の意味を理解することは、「ゲノス」の意味の理解を助けます。「ギノマイ」は、「ゲノス」の語根/語源に当たる言葉であるからです。
しかし、「ゲノス」は、ある特定の人々の集団が、多くの個人の集合体に至るまでにどのような成長を遂げたのか、どのような者となり、どのように育成されたのかに主眼を置いています(つまり、「ゲノス」は、多くの個人の集合体としての存在や、誕生後どのような者――種族、性質、種別、家族、種類など――になったのかを指し示すために主に使われています)。それによって、どのような承継や継承物/遺産と関係しているのか、また、その集団がどのようなものを所有しているのか理解することができるのです。
用例を見てみましょう。
彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれ<注>(ゲノスG1085)であったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。(マルコの福音書7章26節)
<注>この単語は「人種」「家族」「種類」とも訳せます。
この節で「ゲノス」は、シリア・フェニキアの女性の「人種」を指し示すために使われました。
別の例を見てみましょう。下の節で、「ゲノス」は「子孫」に関して使われています――主イエス様はダビデから出た「子孫/後裔」でした。この場合、ヨハネの黙示録22章16節と同様に「ゲノス」は「血統」の意味で使われています。
「わたしイエスは御使いを遣わし、諸教会について、これらのことをあなたがたに証しした。わたしはダビデの根、また子孫(G1085)、輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22章16節)
上記から、主イエス様が(天地創造前の永遠の過去に)ダビデの根として存在し、(自然界/現世において)ダビデから出た子孫であることが分かります。しかし、この場合の「ゲノス」は、通常「ゲンナオー」が指し示す場合とは違って、直接的な父子関係を表すものではないことに注意しましょう。
ヘブライ語「アム」(H5971)の訳語であるギリシャ語「ゲノス」(G1085)
ギリシャ語の「ゲノス」(G1085)は大抵、ヘブライ語の「アム」(H5971)から訳された単語です。「アム」の意味を確認しておきましょう。
1.「集められた人々」
「アム」は「人々」を意味しますが、本来は「共に集められた者」のことです。「団結した」「つながりのある」「関係する」――共通点のある――人々(住民)です。「アム/ゲノス」は全ての人々のつながりに焦点を当てています。人々を王、指導者、王子といった高い地位や高貴な身分にグループ分けしたり、民衆と区別したりするのとは全く異なる概念です。
このような「アムH5971/ゲノスG1085」の定義は、ある人々の集団が一人の共通の元祖から出た子孫であるという点を表し強調しているように思われます。元祖からの系統を引く中で、どの世代や時代に存在したかは問わないのです。
2.「単一の種族」または「部族」
「アム」にはこのような定義もあります。人々がどのような者になり、どのように育てられたかという点が強調されているようです。
「アム」(H5971)すなわち「ゲノス」(G1085)の用法は他にもあり、「ヤラド」(H3205)よりも広義で使われるようです。時には全国民が「アム」と表現されることがあり、つながりの範囲がより広くなるようです。
「ゲノス」「アム」(人種、種類、家族、血統)と「ゲンナオー」「ヤラド」(生む)の違い
「ゲノスG185/アムH5971」は、「ゲンナオーG1080/ヤラドH3205」とは対照的です。
「ゲンナオー」(G1080)は、その子孫が誰に由来するのか、ある個人が誰から出た子孫であるのか、つまり、誰がその子をはらみもうけたのか(その行為や行動)を強調しているように思われ、どのように育ったのか、誰に育てられたのかということは問題ではないようです。つまり、焦点は誕生後の存在――種族、部族、種類、血統など、人々の集団としてどのように成長したか――にはないようです。
このように、「ゲンナオー」は、直接の父子関係や特定の人が誰から生じたのかを定義するために使われています。
また、(動詞である)「ゲンナオー」は、ある人物がどこから、また、誰に由来するのか――「クシュはニムロデを生んだ」の場合のように、ある人物が誰から出た子孫であるのか、その血統――について強調しています。創世記5章と11章の一部では、そのような関係性を表す場合に使われているようです。ある場合には「ゲンナオー/ヤラド」という単語が、他の子孫たちについての記述を省略したかどうか明示することなく、二組の人々のつながりを示すために使われたのです。
このように「ゲンナオー/ヤラド」には2つの異なる用法があるにもかかわらず、創世記5章と11章ではそれらが混在していることで、族長たちの年代を特定することが難しくなっているようです。
「ゲンナオー」は、マタイの福音書1章2〜16節など「血統」に関する定義として連続した直接的父子関係を示すと思われる場合にも使われています。しかし通常、「ゲンナオー」は、どのような人々になったのか、どのように育てられたのか、誕生後の存在について焦点を当てることはないようです。
一方、(名詞としての)「ゲノス」は、ある人々の集団がどこから来たのか(誰から出た子孫か)、ある集団(種族、部族、種類など)としてどのように育ったかを定義します。従って、それらの人々がどのようなものを承継し、後に残したのかを、私たちが知る助けとなるのです。
例を見てみましょう。創世記10章8〜12節のニムロデについての聖書の記述です。
クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の勇士となった。(創世記10章8節)
彼は主の前に力ある狩人であった。それゆえ、「主の前に力ある狩人ニムロデのように」と言われるようになった。(同9節)
彼の王国の始まりは、バベル、ウルク、アッカド、カルネで、シンアルの地にあった。(同10節)
その地から彼はアッシュルに進出し、ニネべ、レホボテ・イル、カルフ、(同11節)
およびニネべとカルフの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。(同12節)
このように、ニムロデの子孫が誰でどのような人々になったのかが詳しく語られ、その承継や継承物/遺産について私たちが知る助けとなっています。
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