クリスマスおめでとうございます。クリスマスによく読まれる聖書の言葉に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)があります。この「永遠の命」という言葉は、ヨハネ福音書と第1ヨハネ書において特徴的です。
今回は、第1ヨハネ書2章15節~3章3節を読みます。ここでは、前々回から提示している、私が作成した「神・キリスト・人間の関係の図式」における縦の3本の線の左側の「永遠」と「命」に関することが中心に展開されています。その理由となったのは、実は反キリストの教師たちの存在だったのです。それでは、さっそく読んでいきましょう。
反キリスト
2:15 世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。17 世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
18 子どもたちよ、今は終わりの時です。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。このことから、今が終わりの時であることが分かります。19 彼らは私たちから出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたことでしょう。しかし出て行き、彼らが皆、私たちの仲間ではないことが明らかになりました。
20 あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。21 私は、あなたがたが真理を知らないのではなく、真理を知っており、すべて偽りは真理から出たものではないと書いているのです。22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくて、誰のことでしょうか。御父と御子を否定する者、これこそ反キリストです。
23 御子を否定する者は皆、御父を持たず、御子を告白する者は、御父を持っているのです。24 初めから聞いたことが、あなたがたの内にとどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたの内にとどまるならば、あなたがたも御子と御父の内にとどまります。25 これこそ、御子が私たちと交わされた約束、永遠の命です。26 あなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書きました。
2章18~22節において、問題の反キリストの教師たちのことが伝えられています。そして、それを挟むようにして、17節と25節に「永遠」「永遠の命」という言葉が記されています。このような文章構成によって、修辞的な効果をもたらしているのかもしれません。「キリストにある永遠の命」という教えは、反キリストの人たちの論理とは相いれなかったので、このようにして「永遠の命」という言葉が示されているのだと思います。
反キリストの人たちがどのような形態でいたのかは、よく分かっていないともされています。しかし私は、第2ヨハネ書10節の「家に入れてはなりません」から、当時一般的だった家の教会を巡回していた宣教者たちではないかと考えています。一部の巡回宣教者たちが、反キリストの教えを広めていたのでしょう。
手紙の著者はそれに対して、「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」(20節)と書いています。この場合の「油」は、各自に注がれている聖霊を意味しています。聖霊がイエス・キリストの「真理」を教えてくださるので、信者はそれを知っているということです。
ここには、ちょっとした修辞的な表現があります。油はギリシャ語で「クリスマ / χρῖσμα」ですが、これが22節などの反キリスト「アンティクリストス / ἀντίχριστος」と対比されているのです。つまり、油を注がれた者はキリストを知っている者であり、反キリストではないということを明確にしているのです。聖霊によって真理を知る者は、キリストを知る者であり、反キリストに対抗できるということを示しているのだと思います。
さて、冒頭の三様態の図を再度ご覧いただきたいのですが、この図の左側の縦のラインは、「父なる神の永遠性―イエス・キリストの命(永遠の命を意味するゾーエー)―人間の持つ希望」を示しています。この一番上の「父なる神の永遠性」について、旧約聖書から考えてみたいと思います。
旧約聖書で、神の永遠性を如実に示しているのは、コヘレト書(口語訳では「伝道の書」、聖書協会共同訳と新共同訳では「コヘレトの言葉」、新改訳2017では「伝道者の書」)であると思います。コヘレト書においては、永遠(オーラム)が2通り示されています。一つは定冠詞のないオーラムであり、もう一つは定冠詞の付いたハー・オーラムです。
オーラムは初めも終わりもない神の永遠ですが、ハー・オーラムは太陽の下の全て、すなわち初めも終わりもないようでありながら、実はどこかに初めも終わりもあるものであり、「無限」という言葉がむしろふさわしい永遠です。これが分かりやすく示されているのが、同書3章11節と14節で、そこには以下のような文があります。聖書協会共同訳では、「永遠」と「とこしえ」と訳し分けがなされています。
11 神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。|だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。
14 私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく、加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。
11節の「永遠」がハー・オーラムであり、14節の「とこしえ」はオーラムです。そして、11節後半の「だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」は、修辞的に14節とつながっているのです。つまり11節後半は、意味としてオーラムを示しているということです。分かりやすいように、11節の中央に「|」を入れてみました。
ここでコヘレトは、「人間は、太陽の下の永遠を心で思うことはできるが、初めも終わりもない神の永遠を知ることはできない」ことを示しているのです。これが旧約聖書の永遠理解であると私は考えています。つまり、人間は神の永遠とは交わることができないというのが旧約聖書の理解なのです。
実際コヘレトは、「あなたが行くことになる陰府(よみ)には、業も道理も知識も知恵もない」(9章10節後半)として、「この世での生を十分に楽しみなさい」ということを全書にわたって説いています。そこには、復活や復活後の新しい永遠の命という考え方(1コリント書15章42~49節参照)は示されていないのです。
もっともダニエル書12章2節では、「ある者は永遠の命へ」と、復活思想が示されているのですが、ダニエル書は黙示思想という世界観を前提としており、そこでの「永遠の命」は神の永遠の命の中に入れられるというよりは、「もう一つの世界への復活」というニュアンスが強いと私は考えています。
ヨハネ共同体の文書、特に第1ヨハネ書は、そういった旧約聖書の示す、神の永遠に対する人間の限界を破棄して、「イエス・キリストの復活の命」の故に、「人間が神の永遠の命の中に入れられる」ということを示しているのではないかと、私は考えています。それは、人間が未来永劫(えいごう)に生きていくということよりも、むしろ、神様という永遠のお方の中に存在させられるということではないかと思います。
御子の内にとどまる
27 あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません。この油があなたがたにすべてのことを教えます。それは真理であって、偽りではありません。ですから、その油が教えたとおり、御子の内にとどまりなさい。
28 そこで、子たちよ、御子の内にとどまりなさい。そうすれば、御子が現れるとき、私たちは確信を持ち、御子が来られるとき、御前で恥じることがありません。29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。2 愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。3 神にこの望みを抱く人は皆、御子が清いように自分を清くするのです。
ここでは、御子イエス・キリストの中にとどまることが繰り返し書かれています。「とどまる」という言葉は、ヨハネ共同体の文書に特徴的な「メノー / μένω」です(前回参照)。前回は、神の愛の内にとどまり、隣人愛を実践していくことを中心にお伝えしましたが、今回の箇所では神の永遠の命にとどまることが示されているように思えます。
3章3節に「神にこの望みを抱く人」とありますが、この場合の望みは「エルピス / ἐλπίς」であり、パウロが伝えている「信仰・愛・希望」(第1テサロニケ書1章3節他)の「希望」と同じです。つまりここでは、パウロと同じ、私たちが抱く「希望」が示されているのです。
お伝えしてきましたように、今回の箇所では図の左側の縦の線、「父なる神の永遠性―イエス・キリストの命―人間の持つ希望」が記されていると考えると、理解しやすいと思います。(続く)
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