今回は、第2ヨハネ書9~11節を読みます。
最も解釈が困難な箇所
9 先走って、キリストの教えにとどまらない者は皆、神を持っていません。その教えにとどまっている人は、御父と御子とを持っています。10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いを共にすることになります。
今回の箇所は、第2ヨハネ書の中で、いや極言するならば、新約聖書の中で最も解釈が困難な内容が書かれています。前回お伝えした「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白しない巡回宣教者」について、「家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」と書いているのです。これには、ヨハネ共同体が最も大切にしていた「兄弟愛の掟(おきて)」との矛盾を感じてしまいます(三浦望著『NTJ新約聖書注解第1、第2、第3ヨハネ書簡』409ページ)。
私がかつて在任していた教会のすぐ近くの教会で牧会され、親しくしていただいていた村瀬俊夫牧師も、ご自身のコラムで、「そういう行為は、『敵をも愛せよ』と言われるイエス様の教え(→ルカ6:27)と矛盾しないのでしょうか」と書いておられます。
そういう箇所ですので、今回はこの解釈が困難な内容をどう理解するかを中心に執筆したいと思います。そのためにまず、偽巡回宣教者についてもう少し考えてみたいと思います。
偽巡回宣教者とは
第1回でお伝えしたように、第2ヨハネ書は「真理と愛」をテーマとして書かれています。真理と愛という2つのことは、イエス様の十字架に起因しています。先のコラム「ヨハネ福音書を読む」の第67回と第68回でお伝えしたように、「真理」とは十字架のことです。
この十字架という「真理」と、イエス様が十字架にかけられる前に弟子たちに語られた「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉の中で伝えられている「愛」が、この手紙のテーマになっているのです。「私があなたがたを愛したように」というこの愛は、十字架にかけられて命を捨ててくださった愛です。語られたのは十字架にかけられる前であっても、この愛は十字架の愛です。
第2ヨハネ書は、十字架という「真理」と、十字架による「愛」が基礎になっているのです。そして、「選ばれた婦人」(1節)のような定住している牧会者や、そこを訪れる巡回宣教者たちには、この「十字架の真理と愛」を教えることが求められていたのです。けれども、この手紙で指摘されている偽巡回宣教者たちはそうではなかったのです。
恐らく彼らも、「真理と愛」は主張していたと思います。そして、それは魅力のあるものだったのかもしれません。コロサイ書2章4節には、「わたしがこう言うのは、誰一人として、あなた方を巧みな話術で言いくるめて迷わすことのないためです」(フランシスコ会訳)とあります。これは、コロサイの教会に入ってきた偽巡回宣教者が、巧みな話術で「真理と愛」を説いていたということでしょう。しかしそれは、見せかけの真理であり、人を取り込むための愛であり、「十字架の真理と愛」ではなかったのでしょう。
イエス様は山上の説教において、「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼(おおかみ)である」(マタイ福音書7章15節)と言われています。この場合の偽預言者というのは、ペンテコステ後の初代教会における偽巡回宣教者のことであると思われます。つまり、第2ヨハネ書で指摘されているこの偽巡回宣教者とは、イエス様によって予示されていた「羊の衣を着た偽預言者」のことなのです。
ひるがえって考えてみますと、現代の教会においても、こうした偽預言者は結構多いのではないでしょうか。精神科医で作家のスコット・ペックの著書で、「本当に悪い人物に会いたければ、教会に行け。そうすればすぐに見つけることができる」という趣旨の言葉を読んだことがあります。この「本当に悪い人物」というのは、偽の真理と愛を吹聴する人のことであると思います。
それは、飾り物としてキリスト教を身に着け、いかにも真実であるかのごとくに言葉を語り、必要に応じて他者を徹底してかわいがるような人のことでしょう。スコット・ペックは、こうした人のことを「邪悪」と呼んでいます。第2ヨハネ書において指摘されている偽巡回宣教者とは、そういう「邪悪」な人たちであったのだと思います。
彼らは、イエス様が肉体をとって来られたことを告白しませんでした。ですから、彼らにとって十字架は単なる「人の死」であり、神様の真理と愛の出来事ではないのです。彼らは、そのようなイエス様の十字架には基づかない「真理と愛」を吹聴していたのではないかと考えられます。彼らは「神を持って」(9節)いなかったのです。
家に入れても、挨拶してもならない
しかし、「選ばれた婦人とその子どもたち」(1節)とされているこの手紙の宛先教会の人たちは、「互いに愛し合う」(5節)、また「真理の内に歩む」(6節)という戒めにとどまり、「御父と御子とを持って」(9節)いました。そのような教会を、偽りの教えから守らなければならなかったのです。ですから偽巡回伝道者たちを、「家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(10節)としているのです。
この場合の「家」とは、家の教会を指しているのであり、個人の家に入れてはならないということではありません。教会に彼らの偽りの教えを入れてはならないということでしょう。とはいえ、やはり厳しい言葉であるには違いありません。前述したように、新約聖書の中で最も解釈が困難な内容といえるのです。
しかしながら、2世紀初頭に書かれたとされるこの手紙と、時代をさほどたがわずして書かれたとされる使徒教父文書の一つ「イグナティオスの手紙」には、やはり似たような厳しい言葉があります。
だから私はあなた方におすすめします――すすめるのは私ではなく、イエス・キリストの愛なのです。ただキリスト教的な食物だけをとりなさい。他の毒草、つまり異端を避けなさい。この人々は信頼出来そうにみえて、(実は)キリストと自分達とを混ぜ合わせるのです。ちょうど蜜入りの酒に死毒を仕込むように。無知な者はこれを悪しき快楽をもって喜んで飲み、死ぬのです。だからこのような人達を警戒しなさい。(荒井献編『使徒教父文書』八木誠一訳「イグナティオスの手紙―トラレスのキリスト者へ」180ページ、三浦望著前掲書412ページ)
「蜜入りの酒に死毒を仕込む」とは、まさに邪悪な偽巡回宣教者の姿と重ね合わせることができると思います。第2ヨハネ書やイグナティウスの手紙に、このような厳しい言葉があるのは、キリスト教を形成するために異端との厳しい戦いがあった時代背景も影響しているのかもしれません。
こうした時代背景を踏まえつつヨハネ書簡集を読み解くことは、今後、第1ヨハネ書という、ヨハネ書簡集の「本論」に入っていくためにも必要なことであろうと思います。(続く)
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