今回は、19章25~35節を読みます。
愛弟子への委託
25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」といわれているものがあります。イエス様が十字架上で語られた言葉を7つにまとめたものです。私が調べた限り、このようにまとめられた起源ははっきりしないのですが、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンなどの音楽家が、この題目で楽曲を作曲していることが知られています。
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」は、伝統的には以下のようにまとめられています(加藤常昭著『黙想 十字架上の七つの言葉』3ページ参照)。
- 「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23章34節)
- 「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(同43節)
- 「女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19章26、27節)
- 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)
- 「渇く」(ヨハネ19章28節)
- 「成し遂げられた」(同30節)
- 「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23章46節)
このうち、ヨハネ福音書にある3つの言葉が、今回読む箇所で伝えられています。そして3つのうち、最初の「女よ、見なさい。あなたの子(筆者注・愛〔まな〕弟子のこと)です」「見なさい。あなたの母です」が上記の聖書個所の中にあります。これは、イエス様が愛弟子に対して、マリアと母と子の関係になるように委ねた言葉です。
この言葉についてはいろいろな解釈がありますが、私はこの言葉によって、イエス様が新しい教会を出発させる願いを言われていると考えています。27節の「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」の「家」は、その後にできる愛弟子が指導者となる「家の教会」を意味しているのでしょう。つまり、愛弟子が自分の母としてマリアを教会に迎え、そこで宣教が始まることを意味しているのです。
マリアが最初期の教会の指導者であったことは、「彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」と伝える使徒言行録1章14節が示唆しています。マリアはイエス様の母であったとともに、最初期の教会の母でもあったのだと思います。
「渇く」
28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」のうち、ヨハネ福音書にある3つの言葉の2番目が「渇く」です。この言葉は、第9回でお伝えした、サマリアのシカルの井戸端で、イエス様が女性に対して「水を飲ませてください」(4章7節)を言われた言葉をほうふつとさせます。その後にイエス様は、女性に「命の水」をお与えになったことを上記個所でお伝えしました。
つまり、「渇く」という言葉には、人々に命の水を与えるための契機があるのです。第38回でお伝えしましたが、良き羊飼いであるイエス様は、私たちに命(限りのない命を意味するゾーエー)を与えるために、十字架上で命(限りある命を意味するプシュケー)を捨てられるのです。サマリアの女性に「水を飲ませてください」と言って、女性に命の水を与えたように、「渇く」と言われたことによって、十字架上で命の水をお与えになることが示唆されているのです。
父の御国へ
29 そこには、酢を満たした器が置いてあった。人々は、この酢をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。30 イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
「酢を満たした器が置いてあった」とありますが、この「酢」というのは、酸いぶどう酒のことを意味すると思われます。ここでぶどう酒が差し出されたことには、サクラメンタル(典礼的)な意味があるのだと思いますが、私には詳しくは分かりません。しかし、「渇く」と言われたイエス様が、酸いぶどう酒を受けられたことに、何らかの意味があるのだろうと思います。
イエス様は、ヨハネ福音書における3つ目の十字架の言葉「成し遂げられた」を言われました。これは、イエス様の勝利宣言です。16章33節の「私はすでに世に勝っている」を受けたものです。ヨハネ福音書はこのように、「勝利者キリスト」を強調する言葉を多く伝えています。
そして、イエス様は息を引き取られます。つまり、「父の御国=ご自身の御国」に帰られたのです。第54回でもお伝えしましたが、ヨハネ福音書からは、イエス様の「陰府(よみ)下り」ということが感じられないのです。そして、ご自身の御国へ帰られたと解釈することによって、この箇所は、集中構造分析で明らかになった対称箇所、18章36節の「私の国はこの世のものではない」と対応していることが分かります。
血と水
31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33 イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。34 しかし、兵士の一人が槍(やり)でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
イエス様の遺体は十字架から降ろされることになりますが、恐らくその前に、兵士がイエス様の脇腹を槍で刺します。すると「血と水が流れ出た」とあります。この血と水は何を意味しているのでしょうか。血は死を意味していると、私は考えています。すなわち、イエス様が命(プシュケー)を捨てられたことを象徴しているのです。
それに対して、水は何を意味しているのでしょうか。これは、サマリアの女性に与えられ、仮庵(かりいお)祭の時に「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」(7章37節)と言われていた「命の水」がここで流れ出たのだと、私は考えています。この「命の水」が、私たちに永遠の命(ゾーエー)を与えてくださる象徴となっています。十字架上で「渇く」と言われ、酸いぶどう酒を飲まれて息を引き取ったイエス様が、命の水を発出したのです。
こうしてイエス様は、十字架上で命(プシュケー)を捨て、命(ゾーエー)を与えられたのです。それが、兵士が槍でイエス様の脇腹を刺したときに流れ出た、血と水の意味であろうかと思います。そして、「その血と水は、今でもご自身の御国から私たちに発出されている」というのが私の理解です。
真実
35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
イエス様が血と水を流されたとき、それを見ていた人がいました。この人は、イエス様から母を委任された愛弟子であるといわれています。そして彼の証しは「真実」であるとされます。この「真実」は、ギリシア語ではピラトがイエス様に問うた「真理とは何か」(18章38節)の「真理」とほとんど同義の言葉です。そして、これらの個所は、集中構造分析では対称箇所となっています。
集中構造の文章の特徴の一つとして、「対称箇所に答えが見いだされることもある」とお伝えしてきましたが、ピラトの「真理とは何か」に対する答えは、今も発出されているイエス様の血と水、つまり、十字架上で捨てられたイエス様の命(プシュケー)と私たちに与えられる永遠の命(ゾーエー)であるということもできると思うのです(他の「真理とは何か」に対する答えについては、前回を参照)。(続く)
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