信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)
私たちは信仰によって神に出会います。目に見えない神との出会い、肉眼では見えない方との新しい関係。これは心の世界であり、霊的な世界です。
ことばも目には見えません。思いも目には見えません。しかし、目に見える世界をすべて創造しているのは、実は目に見えない世界であると聖書は記しています。神のみことばによって、すべてのものは保たれています。
神に喜ばれるには、神を信仰しなくてはならないとあります。単純に考えれば、信仰があれば神に喜ばれるということです。
では、どのようにして信仰することができるのでしょうか。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)
信仰というのは神の御子である主イエス・キリストのことばを聞くことによって始まります。そして、そのことばを信じることによります。
イエスご自身は何と言われているのか見てみましょう。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63)
イエスの語ることばが御霊のことば(言霊)であり、それは永遠に変わることがなく永遠のいのちに至ることばであると言われています。イエス・キリストのことばは、すべて造られたものがいのちを得るための創造主のことばなのです。
私たちが聖書を読むのは、神の歴史を知るためです。歴史は「history」、つまり「His story」で「彼」すなわち「イエス・キリスト」の歴史なのです。
神がこの地球を造られた創世の時代である「創世記」から始まり、この時代が終わって新しい天国の時代に至る「黙示録」までの歴史が、聖書の中に記されています。過去の歴史を見れば、聖書通りに進んでいることがよく分かります。
つまり、聖書のことばが現実になっているのです。神は「預言」という形であらかじめ語られたことを聖書に記されました。そしてそれが、すべてその通りに起こっています。ですから、聖書は先見の目が開かれる書物です。これから先の世界の在り方は、この聖書を読めばある程度分かります。
全世界の人口が約70億人とすると、70億分の1である私たち一人一人の歩みは「His story」つまり私たちが主イエス・キリストとどのような歩みをしていくかによってつくられる、彼と私たちの歴史になるのです。なんと素晴らしいことでしょうか。良い歴史をつくりたいものです。
聖書には、神は必ず預言してからでなければ何事も行わないとも記されています。
遠い大昔の事を思い出せ。
わたしが神である。ほかにはいない。
わたしのような神はいない。
わたしは、終わりの事を初めから告げ、
まだなされていない事を昔から告げ、
「わたしのはかりごとは成就し、
わたしの望む事をすべて成し遂げる」と言う。(イザヤ46:9、10)
大昔のことを聖書から現実の歴史として調べることができるのです。
例えば、私たちは世界の国々の盛衰を史実として知っています。エジプト、アッシリヤ帝国、バビロン帝国、ペルシヤ帝国、ギリシャやローマ帝国――これらの史実が聖書に記されています。
歴史は誰が何と言おうと実際に起こったことですから、遠い大昔のことから現在、そして未来に至るまで、すべてを神が預言され、それが聖書に記されているという事実を目の当たりにして、あらためて畏れをもって感動を覚えるでしょう。
引き続き、神のご性質が宣言されているところをもう1カ所見てみましょう。
まことに、神である主は、
そのはかりごとを、
ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、
何事もなさらない。
獅子がほえる。
だれが恐れないだろう。
神である主が語られる。
だれが預言しないでいられよう。(アモス3:7、8)
このように、必ず預言をしてから行われるのが神のご性質です。ですから、私たちは「知らなかった」とは言えません。もちろんすべての人が聖書を読んでいるわけではありませんが、聖書が世界のベストセラーであるのは間違いありません。今もなお、すべての言語で聖書を翻訳する作業が心ある人たちによって進められています。聖書は神の預言書であり、すべての人に必要だからです。
話を戻します。「信仰」とは神が語られたことが現実になった、あるいは現実になることであり、神が行われたこと、あるいは行われることを理解し信じることです。
そして、それを知った私たちが聖書の記述を自身の生活にどう適用するか。これが信仰者の歩みであり、目には見えない神を体験することになるのです。
神が語られたことを聖書から知れば知るほど、私たちは神の国の法則に生かされ、みことばを体験するようになります。神のことばに信頼することこそが、信仰には最も必要と言えるでしょう。
地上には善悪があるので、良いことも悪いことも起きています。しかし、神の国には良いことしかないという現実に基づき、神の国を地上に実現していくのが聖書の教えであり、信仰によってなせるわざなのです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。
では、神の国の定義を聖句から見ていきます。
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)
神の国は、地上のように肉体を満足させるだけの所ではなく、正義と平和と神の霊による喜びの世界です。そのモデルが地上では「エデンの園」でした。よく潤ったすべての必要が満たされている「歓喜の園」です。
創世に造られた神の国のモデルであるエデンの園を、キリストのことばによって、今、あなた自身の中に、あなたの心の中に実現しなさいと言っているのです。
心の中にエデンの園が回復したとき、それが目で見える実体として具現化されていきます。地上にあるのろいから来る悪い思いやことばが取り除かれて、神の国の祝福をもたらす良い思いとことばを受け取り、私たち信仰者を通して祝福を現す時代が到来したのです。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖(あがな)い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13、14)
キリストが私たちの身代わりとなって、私たちの罪を十字架で負ってくださったので、のろいの3つの要素である「あらゆる病い」「あらゆる貧困」「あらゆる災害」(参照:申命記28章)が取り除かれて、すべての国の人々に神の御霊(神の霊)が与えられるという天の祝福の道が用意されました。
神の御霊は全能な方ですから、私たちは天にあるすべての霊的祝福を信仰によって受け取ることができるのです。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)
私たちは、すでにキリストにあって祝福されています。御霊が息吹かれて神の子どもとなり、神の国をこの地上に実現するために聖書を通して神のことばが与えられました。
そして、ここで大切なのはキリストのことばは生きているということです。ただの文字ではなく、生きて働いているのです。
例えば、あなたがお昼に食事処へ行って、メニューを見て「もりそば」を頼んだとします。口に出して、ことばにして注文します。そして待っていると、目に見える「もりそば」が出てきます。目に見えないことばから目に見えるものが作られる分かりやすい例でしょう。
聖書の中にある約束を私たちが神に向かって信じて願うとき、祈るとき、宣言するとき、それはすでに実現しているということが記されています。
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22〜24)
ここで言う「山」は、人生におけるいろいろな問題の比喩です。私たちには、その日その日に動かさなければならない山のような問題があるかもしれません。それを信仰によって動かし、荒野のように荒れ果てていた自身の心を楽園にすることができるのです。
次に第一ヨハネの約束を見ます。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5:14、15)
みこころにかなう願いをするなら、確信的にそのことがなされるという約束です。なんと力強いことでしょうか。
みこころにかなう願いとは、聖書に記されている約束を願い、行うことです。先ほども見てきましたが、「誰が預言しないで行おうか」と言われるように、神は必ず事前に約束を伝えています。その約束が預言として聖書に記されているので、聖書は預言書とも言えます。そして、預言されたことは何度でも起こります。聖書の記述から必要を探り出し、信仰し、自分の心や生活を神の国の園にして、苦しんでいる人々を助け、導いていく。自身でも体験しながら、その体験を聖書の預言の成就という形で現し、伝えていくのです。
さらに聖句を見ていきます。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。・・・信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1、3)
このことが理解できれば、自分の思いとことばを聖書に記された神の思いに重ね合わせることがどれほど重要かが分かると思います。
みこころにかなう願いとは、聖書に記されている約束事を願い、信仰することなのです。しかし願うときにも、その人の心の動機によって2つの歩み方があるので注意が必要です。
・・・愛によって働く信仰だけが大事なのです。(ガラテヤ5:6)
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:2、3)
私たちは信仰のことばである神のことばを信じて、日々神に告白しながら祈っていく必要があります。そして、受け取ったことを感謝とともに宣言していきます。宣言することによって、言霊の世界が具現化されていきます。
しかし、この2つの聖句にあるように、神の願いは神を愛することであり、自身を愛するように人々を愛することですから、この愛のために信仰を用いていけば、その願いは確信的に成ると思ってよいでしょう。
一方、悪い動機で自分の利益のために信仰を用いようとしても、それはかなえられません。善行のために用いればよいのですが、自分の悪癖のために願ってもかなえられないということです。なぜなら、その悪い世界から救い出してくださったのがキリスト・イエスなのですから。
「愛によって働く信仰だけが大切」という教えは非常に大切なみことばです。つまり、この章の冒頭の聖句にある「信仰がなくては神に喜ばれることができない」の信仰とは、愛によって働くものなのです。信仰とはキリストのみことばを信じることであり、それを祈り、宣言することによって実現することなのです。
信仰の実践が神とともに歩むことであり、それにより神に近づく者となって、神ご自身の願いが何であるかを知るようになるでしょう。私たちの信仰が神によって成長していくと、神に求めるのではなく、神ご自身を自分の人格の中に求めるようになります。そうなれば、ますます神に喜ばれるようになり、自身にも神の国の喜びがあふれる人生となるでしょう。
以上のことから、神に喜ばれる生活は信仰の歩みによるのです。
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)
このように神は私たちを諭してくださっています。神のご性質である公義と誠実を愛し、へりくだって神とともに歩む人生。このことを神が私たちに望まれているのです。
神を求め、神とともに歩む人生。なんと幸せな人生でしょう。信仰によって、すべての祝福が私たちの人生に具現化されますように。
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主から語られたことや体験を参加者一人ひとりが分かち合う。
メッセンジャーは聖霊の導きに従い、
ライブで主からのメッセージを取り次ぐ。
みことばの泉にひたり、
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