男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。(レビ20:13)
前回は、生理的、心理的、潜在意識的な嫌悪感に「宗教的な教義」が加わると、事態は破滅的な結果をもたらすという話をしましたが、確かに上記のような箇所を字義的に読むと、聖書が同性愛を特別な罪として、一方的に断罪しているように読めてしまいます。
それでは私たちは、このような箇所をどのように理解したらよいのでしょうか。まずは、聖書解釈において多くの方が陥りやすい「誤ち」について押さえておきたいと思います。
一つには、聖書の言葉を、時代や文化、背景や文脈、著者の意図、旧約と新約の役割の差異などを全て無視して字義通りに理解し、そのまま適用してしまうことです。上記の言葉をそのまま適用すると「同性愛の方々は死刑」ということになり、破滅的な結果をもたらします。
もう一つの過ちは、人間の感情や、理性的に受け入れられないからという理由で、神の言葉を曲解したり、一部を無視したりしてしまうことです。
今回のシリーズを書くに当たって、参考とさせていただいている本が一冊あります。アンドリュー・マーリンという方が著した『LGBTと聖書の福音』という本です。その中に、あるゲイの牧師の言葉が書かれています。
聖書は正しくなく、人を動かすものでもなく、LGBTコミュニティを傷つけるだけなので、意図的に聖書の一部分をすべて無視している・・・。(100ページ)
確かに、冒頭のような箇所を読むと、このゲイの牧師の言葉が理解できる気もします。しかしそれでは、神様のメッセージ全体を傾聴する姿勢は損なわれ、語る人の数だけ、恣意的に取捨選択された聖書観が乱立してしまいます。そのようなことに対して、イエス様も警告をしています(マタイ5:19)。
それでは、どのように私たちは聖書を理解すればよいのでしょうか。私も完璧な答えを持っているわけではありませんが、今日は考え方のヒントになることを幾つか書かせていただこうと思います。
■ 律法(戒め)が与えられた意図
イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。(レビ18:2、3)
冒当の聖書箇所は、上記のような文章から始まっています。つまり、その後に出てくるさまざまな禁止事項はエジプトやカナンの地でなされていたことであり、神様はイスラエルに、彼らとは一線を画した歩みをしてほしいと願ったのです。
今の時代においては、世界中に創造主を信じる方々が多くいるわけですが、当時の世界においてはイスラエルだけが主に対する信仰を持っており、他国ではさまざまな偶像の神々があがめられていました。ですから、主は他国の人と性的な関係を持つことや、他国の風習に従うことを禁じました。
それは、それ自体が悪習慣である場合もありましたが、それらによって彼らが真の神様への信仰を失い、偶像崇拝者になることを危惧したためでした。
■ 衛生面・健康への配慮
また、レビ記に書かれている戒めは、同性愛に関するものだけではありません。むしろ異性愛に関する戒めの方が多く書かれています。他の戒めも一緒に確認しておきましょう。
あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。(レビ18:9)
また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。(同20)
また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。(同21)
動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。(同23)
いかがでしょうか。不倫の禁止のように現代に通じるものから、耳慣れないものまであると思います。例えば近親相姦に関しては、社会的にはOKな国や時代もありましたので、神様の戒めを理不尽に感じる人もいるかもしれません。
しかし現代においては、DNAを補い合うために、親族関係から遠い人と結ばれるのが理想であることが明らかになっています。韓国においては、同郷の同じ苗字の人とは、親戚でなくても結婚することが禁忌とされているほどです。
動物と寝ることに関しては、非常に衝撃的ではありますが、「本人さえよければ、口を挟む必要はない」と思う人もいるかもしれません。しかし現代では、動物の中にいるウイルスが人の中に入ると、パンデミックを引き起こす可能性のあることが分かっています。そして、動物と関係を持つ人は、媒介者となってしまう危険性があるのです。
このように、一見すると意図がよく分からない「戒め」であったとしても、そこには私たちが気付いていない理由がある可能性はあります。まるで子どもには分からなくても、親は危険を察知できるように、あらかじめ私たちの心や健康のために禁止してくださっているケースもあるのです。
そして、子どもが危険なことをすると、普段は優しい親が烈火のごとく怒るように、神様が私たちのことを思って叱る場合、その言葉が極端なものになる場合があります。しかし、それは私たちを憎んでいるからではなく、愛しているからなのです。
■ 神殿娼婦・男娼
さて、「女と寝るように、男と寝てはならない」としている背景には、「神殿男娼」の存在もあるように思います。当時の異国の宗教観においては、神殿で性的な交わりを持つことは、宗教儀式であるという概念がありました。
性的な交わりは、ある種の興奮状態や子孫繁栄をもたらすわけですが、それらが宗教的な神秘体験や大地の豊穣とリンクしていたわけです。それらの神殿には性器を露骨に象徴した像が安置されていたりもしました。
ですから、当初は男性信者と神殿娼婦との間の儀式だったのだと思うのですが、そこから発展したのか、「神殿男娼」という存在が、聖書の中に度々記述されています。
そして、イスラエルの人々は何度となく、この異教の風習に引かれて、主への信仰から離れていきました。ですから、聖書は神殿娼婦や男娼になること、また彼らと交わることを禁じているのです。以下のように書かれています。
イスラエルの女子は神殿娼婦になってはならない。イスラエルの男子は神殿男娼になってはならない。(申命記23:17)
この国には神殿男娼もいた。彼らは、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、すべての忌みきらうべきならわしをまねて行っていた。(1列王記14:24)
聖書が「神殿娼婦・男娼」を禁じているのは、彼ら自身のためでもありました。インドなどでは、小さい子どもたちが巫女に祭り上げられてしまい、性的な搾取を受けてきたことが明らかになっています。プレジデントオンラインに、このような記事がありました。
ある子供は、9歳でデーヴァダーシー(巫女)となり、公然と競売にかけられ、父親ほどの年齢の裕福な男性に初体験を買われ風俗街へ売られるなど、人道に外れた悪行の被害者となっている。(「宗教の名を借りた『デーヴァダーシー』という悪しき風習」より)
聖書も、「神殿男娼」となった者たちの悲しい末路について言及していて、神殿男娼の寿命が短いことが当時の常識として認知されていたことが分かります。
彼らの魂は若いうちに死を迎え 命は神殿男娼のように短い。(ヨブ36:14、新共同訳)
宗教的な儀式という名のもとに、幼い頃から不特定多数の相手をさせられた彼らは、性病などのリスクにさらされ、精神的にも多大なダメージを負い、早死にしていたということです。そしてこれらの宗教は、子どもに火の中を通らせていけにえとするようなことまでしていましたので、聖書はこのような流れに強い言葉で警鐘を鳴らしていたのです。
■ 律法と福音
しかし、いくらなんでも、「男がもし、女と寝るように男と寝るなら、彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある」というのは、厳し過ぎる言葉だと思われるかもしれません。しかし実は、聖書にはにわかに受け入れがたいような「戒め」が、他にも多く記されています。例えば、安息日の問題です。
イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。・・・すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない」(民数記15:32〜35)
これが、旧約時代の「戒め」です。ところが、現代の教会で、安息日に仕事をしたら「石で打ち殺す」というようなことを教える教会があるでしょうか。
他にもあります。年に3度の主の祭りをすること、肉体に割礼を施すこと、動物の血に関すること、豚食の禁止にも旧約聖書は言及していますが、今日の教会では字義通りに実行されてはいません。
誤解のないようにいっておきますと、今日の教会が文字通り旧約の戒めを実行していないというのは、キリスト教が旧約聖書を無視しているからではありません。旧約聖書の肉体に関する律法は、新約の時代において、より本質的・霊的なものに昇華しているのです。
詳しく書くと長くなりますが、例えば、旧約時代の3度の祭りはキリストの降誕、十字架上での贖(あがな)い、聖霊降臨を示していますし、肉体の割礼は御霊による心の割礼を象徴しているのです。そして、新約時代のキリスト者たちは、これらの本質を信仰によって受け入れているのです。
旧約時代の律法(戒め):
地上的、一時的、象徴、肉体(古き外なる人)に関するもの
新約時代の福音(恵み):
天国的、永遠な、本体、霊魂(新しい内なる人)に関するもの
このように見ますと、旧約聖書の戒めが、全て文字通り新約時代の教会に適用されているわけではないことが分かります(さらに詳しく知りたい方は、使徒の働きの15章をお読みください)。しかし同時に、旧約聖書に書かれている律法「戒め」を、廃棄しているわけでもありません。イエス様がこのように言っている通りです。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)
以上の説明で、ある程度、腑に落ちたという方もいるでしょうし、結局のところ、同性愛についての結論がよく分からないと思われた方もいるでしょう。また、今回のような説明は、聖書の教えを薄めて相対化しているだけだという批判をされる方もいると思います。
聖書が同性愛について言及しているのは、レビ記だけではありませんし、今回は考え方のヒントになることを挙げただけですので、次回以降も引き続き、皆様と一緒に考えていければと思います。
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