不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(9)
※ 前回「転生なきビジョンはない(その1)」から続く。
少し気味悪い空間というものがある
レギオンが身を置ける場所が墓場であったと仮定しよう。まあ、とにかくそこが住み家であったのだ。では、そこで安住できたかどうかといえば、答えは「否」である。彼は夜となく昼となく墓場や山で叫び、石で自分の身体を傷つけていたのである。このような様子が何を意味しているかはともかく、このような行動が現代人の中でも少なからず起こっている事実は知っている。私自身は精神科に入院した経験はないが、10年ほど精神科外来に通院していたので、そこがけして異様な場所ではないと断言できる。
しかし、たまたまその病院に仕事で訪問していた人(その人は私がその病院に通院していることを知らない)が、このように語ったことを思い出す。「仕事で行く機会があったのですけど、こういう言い方は失礼だとは思うのですが、私にはそこがとても気持ちの悪い場所に感じてぞっとしました」。この言葉を聞いて筆者は「なるほど」と感じたのである。けして腹立たしくはなかった。「そうか、私はそこにすっかり慣れてしまっていたのだ」と感じた次第だ。
確かに精神科の外来とメンタルクリニックの外来では雰囲気が違う。精神科外来はヘビーな場所であるとは思う。誤解を招くから確実なことを書いておくが、精神科外来で叫んでいる人はいないし、まさかそこで自傷をしている人もいない。ただそこには、そういう経験者がいる、あるいはそういう経験のただ中にいて苦しんでいる人がいるというだけである。
自傷は厄介でもある
さらに私の経験談にお付き合い願おう。「外面(そとづら)の良さだけで生きている」とは、まさに私のことである。だから昼間から叫ばないし、跡が残るので自傷もしない。ところが、パチンカス(強度のパチンコ依存症)の時代はとにかく深夜に庭に出て叫ぶことが多かった。スコップを持って土を打ちたたくという経験を何度も繰り返した。当時は近所の家が少なかったので、わりとためらいなくレギオン祭りを楽しめたものである。
もちろん、それで気分が良いわけではない。夜中に暴れてさぞ気持ちが良いだろうと考えるのは間違いである。昼間は外面をしっかりと保っている(つもりだったが)から、内面がものすごく疲弊している。夜中に内面が悲鳴を上げて暴れ出すのだ。夜は魔物の時間であるというのは本当のことである。自らを切り刻むのも大抵は夜である。
自傷をしてもそれで生きられるならそういう方法も肯定できるだろうが、実のところちょっとした自傷が「くせ」になって大きな自損につながっていくのだ。その果てに少なからず自死に進む人がいるのである。死ぬつもりのない自傷で死ぬこともあるし、大きな後遺症を残すこともある。だから自傷癖は治さないといけない。これは自分自身も周囲も相当に気を付けなければならない事柄である。アルコール依存、薬物依存はゆるやかな自死だと語る医師もいるが、これも自傷の一つだ。とにかく自傷を含め、いろいろな依存症そのものは意図的に隠されている場合が多い。それが表に現れるようなら、かなり末期的と言わざるを得ないのである。(※ 文末に依存症、自殺予防に関する参考書籍あり)
レギオン登場
レギオンに取り憑(つ)かれた人は墓場から出てきてイエスを迎えた。それも遠くから見つけて駆け付けてきたのである。彼は身を隠さない。たとえ彼に取り憑く悪霊が彼の身を動かしているとしても、彼はイエスから身を隠さないのである。身を隠すという行為については、この連載の初期に論じているので参照してほしい(「人間とは何か?『裸』で生まれた者として」その1・その2)。概略を述べるなら、神の命令に違反したアダムは神から身を隠してしまった、ということについて書いてある。しかし、レギオンに取り憑かれた人はイエスを見つけて駆け付けてきたのである。ここに一つの希望を見いだすことができるはずだ。大胆な言い方をすれば、またこのような言い方を宗教は好むのであるが、聖書に書かれているこの人を一言で表現するなら「邪」である。けして彼は「罪人」(これもキリスト教が好む表現であるが)ではない。「邪人」なのだ。悪を行っている自覚はないのだ。墓場に住むのも自傷するのも悪でも罪でもないのだ。その点は強調しておきたい。
キリスト教の限界?
一部を除くが、キリスト教は「罪人」たる人間をキリストへ導くことを一つの信念としている。「罪人」が罪の赦(ゆる)しを得て、キリストから救いを受けることを解き明かしているのである。もちろんそれがキリスト教のすべてではないが。ところが、社会全般が「邪」と暗黙に了解している人に対しては、実のところどう対処してよいのか分からないのが現代キリスト教の特徴だ。特に聖癒の神秘を認めないプロテスタントの多くは「邪」をまとう人への対処が大変におろそかである。この点について、カトリックには聖癒を担う職があって教会の許可の下に「邪」を払う行為を行っているので、必ずしも「おろそか」とは言い難い。私が属しているプロテスタントにおいては、宗教的な役割と医療の役割をかなり明確に区別しているので、「レギオン的な人」に対しては「どうぞ専門の医師にご相談ください」とアドバイスするのがよろしいとされている。実際に私もレギオン的な「邪」との戦いにおいては全面的に医療に依存していた。とてもじゃないが、教会や教会の牧師に相談する気にはならなかったのだ。
転生前夜
あえて「邪人」と表現させてもらったレギオンをまとう人についてであるが、彼の人格全体がレギオンに乗っ取られてしまったと判断することはできない。この辺は医療判断も必要なのかもしれないが、経験的に言えば、レギオンを身にまとっていたとしても「その人はその人」なのだ。全面的に悪霊そのものではないのである。だから「邪人」と表現させてもらった。彼はけして「邪」そのものではないのだ。にもかかわらず、人は彼を「邪」そのものと勘違いしてしまう。だからミスコミュニケーションが起こってしまうのである。もちろんこれは、このストーリーを読んでいる読者にも起こり得るミスコミュニケーションである。
先ほど述べたとおり、悪霊に取り憑かれていたとしても、人は人であって悪霊そのものになるわけではないのだ。にもかかわらず、世間一般はなかなかそのことを理解しないのである。「邪」さえ取り除かれればよいのである。だから人が人を遠ざけたり隔離したりする、そういう悲劇が生まれるのである。そのような人に対して、神の子イエス・キリストはどう向き合うのだろうか。われわれと同じように遠ざけるだけなのか。次回はその点について述べていこう。(続く)
※ 参考書籍
- 樋口進編『現代社会の新しい依存症がわかる本』(日本医事新報社、2018年)・・・依存症について
- 倉持穣著『クリニックで診るアルコール依存症 減酒外来・断酒外来』(星和書店、2019年)・・・比較的新しいアルコール依存症の対応について
- 杉山直也他編『プライマリ・ケア医による自殺予防と危機管理』(南山堂、2010年)・・・一般的な自殺予防医学について
- 高橋祥友著『自殺予防へのプロ対応』(医学と看護社、2013年)・・・一般外来から専門家外来へつなぐ自殺予防について
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